私は女として、しばしば怒りに燃えています。
しかし私の女権主義的な怒りは、私たち人類がお互いに、あるいはこの地球に対して、または自由と生命との希望に対してやっていることに直面したときに私を捉える怒りや恐怖の一部分、一要素をなすにすぎません。
私は今なお、それが人類の一員であり私たちの子供たちのひとりであれば、男か女かということを「気にしない」でいます。
一つの魂が獄につながれているとき、私はその性別を尋ねたりするでしょうか?ひとりの子供が餓えているとき、その性別を知ろうとしたりするでしょうか。
ラディカルな女性解放運動家のうちある人びとはイエスと答えます。すべての不正や搾取やいわれのない攻撃の根が性差別にあるという前提をとるならば、この見解は健全です。
私はこの前提を受けいれることができず、したがってそれに基づいて活動することもできません。そしてもし私が自分にそうした活動を強いるなら――私の活動の形態は書くことですが――私は真実性に欠けるできの悪いものを書くことになります。
私は真や美の理想を、イデオロギー的主張を通すために犠牲にすべきなのでしょうか。
おそらくラディカルな女性解放運動家は再びイエスと答えるでしょう。
(中略)
理想のために物事の成就を犠牲にするのはいいとしても、イデオロギーのために明晰な思考や率直な感情を抑圧するとなると、これは別の話です。
イデオロギーというものは、それが思考や感情の明晰さ、率直さを強めるのに用いられる限りにおいてのみ価値があるのです。
「辺境の惑星」サンリオSF文庫版P216〜217「女性解放イデオロギーと私―一九七八年版への序文―」より。
1977年5月に書かれた文章です。
女性解放イデオロギーを他の単語に読み替えて見ることもまた可能だし、そのまま読んでもよいですし。
何故この文章を引っ張ってきたかという切っ掛けは一応あるんですが、いつものことながら出発点からかなり離れた話なのでそれはいいや。
思想や定義に引きずられてなんかやってもしゃあないだろ
で、ここからは単なる私の意見。
「オタク」でも「草食系」でも「ギャル」でも「腐女子」なんでもいいんだけど、言葉というか定義に縛られすぎてるのってなんだろうなあ、とかそういう話です。
〜ってのはこういうものだ、と定型を想定するのはそれぞれだけど、そこに当てはまらない、いやさ当てはまろうとしない人や物事をどうとらえるのか問題。
そんなのは〜じゃない!、〜はそんな事言わない!、〜だったらこうすべきだ!
なんだそれ。
型を知って外すのが型破り、知らずにやるのは形無し。
でもその「型」ってのは何なのよ。
伝統芸能や家元制度のあるなんやらかんやらと違って、勝手に好きな事やってるだけじゃあねえか。
ある種のイデオロギーに賛同するか、そういう考え方を認めるか、と問われたら「君の意見には反対だ。 だが君がそれを言う権利を、命にかけて守ろう」という言葉を返すしかない。
自分は好き勝手に言うだろうし、そして、好き勝手に言われる事も許容する。
でも、言われたとおりにするかってのは全然別次元の話です。
そうそう、この文章は何故かハヤカワ版(辺境の惑星 (ハヤカワ文庫SF))には収録されていません。ご注意ください。
この竹宮恵子による表紙が目印です。