本日、山岸凉子「日出処の天子」の完全版が刊行開始されました。
自分は、あの作品を最初に読んだのは親戚の家でだったんですけど、恐ろしかったのと美しさに感動したのと6:4くらいだったなあ。
で、中島らもが山岸凉子と対談で語ってたよなあ、と探してきたのがこれ。
雑誌「MOE」1994年10月号に掲載され、のち、「MOE特別編集 少女まんがゆめ王国」1997年に再録されたもの。
中島らもがもともと山岸凉子作品に惚れ込んでいて、文庫の解説を書いたリ、これ以前にも対談を行ってたり、とあるのですが、作る人、としての話なんかが色々面白い。
中島:恐怖ものとギャグというのは、うり二つです。構造的にすごく似てるんです。
(中略)
山岸:なるほど、面白いですね。喜怒哀楽って、すべて行き着くところまで行き着くと突然別のものにかわるんですよね。
怖いものが行き着くとおかしみになったり、悲しいものが行き着くとおかしみになったりとか、おかしみが行き着くと怒りや悲しみになりますものね。
せんじ詰めていくと、いま私、とても気になっているテーマに「人はなんで鬼になるのか」というのがあるんですけど、ある感情が行き着くところまでいって出口がないと、自分が鬼になってそれを耐えるしかないんじゃないかと思うんです。
中島:面白いですね。人の内面の夜叉がくるっと入れかわって、鬼になって出てくる。つまり、鬼は外に対する武装なんですね。
この少し前、文庫の解説を中島らもが書いた内容について。
山岸:「天人唐草」のあとがきに中島さんが書いて下さった言葉の中で「このように作家は神のように無力だ」というのがあるんですが、あれは私や友人の間で論争を呼んだんですよ。
中島:え、そうなんですか。
山岸:私にはその言葉がぴたっときたんです。
少年愛的なものと年齢の話で、中島らもは、現在で言えば中学生まで、というのを指しているというのがなかなか興味深い。
この辺、男性的視点でもある?
中島:厩戸皇子は、目と口の線のひとつで、表情が微妙に全部違ってますもんね。で、色っぽいし。
山岸:え、色っぽいですか?私の作品、色っぽさがないと思ってるんですけど。
中島:いやあ、色っぽいですよ。でも、最後、彼は19歳ぐらいまでいきますけど、ああいう性的な関係は14,5歳くらいで完結してほしかったですね。
作家、という職種についてになるんでしょうか。
中島:ものを作る人間というのは、必ずある種欠けてる部分があるんですよね。それを補うためにものを作っているような。
それを完璧にやってしまうと、社会的に認められないとか、自分で許せないとかあるんですけど、それは、この道に入ってしまった以上しかたがないですね。
で、その欠けている部分というのが本当に満たされて、調和してしまったら、もうものは書かなくなりますよ。
山岸:私はその、がくっと欠けた部分を埋めたい。すると飛び出た部分も引っ込むんで、ただの丸になるんですけど。
それ人というか、日常に適応してる生活者なんですよね。
私も、社会適応者に憧れながら結局、ずっとマンガを描いているような気がします。
この、他に一条ゆかり、山田南平、成田美名子、樹なつみ、清水玲子、萩尾望都、由貴香織里、坂田靖子、羅川真理里茂のインタビュー、赤木かんこ・米澤嘉博によるコラムなど、色々載ってて面白いので、機会があったらご一読あれ。
といったところで今回はここまで。