おもしろいかどうかではない。
時代はこうなのだ、といった物語を手に入れたい。
そして、この過酷な時代であるからこそ、それに対応できる己を見つけだしたいと願うのである。
21世紀に入って映画として三部作リメイク された、機動戦士ゼータガンダムのTV放映直前*1に書かれたファンへのメッセージであり、一種の檄文とも言えるでしょう。
ガンダムファンへのメッセージ
言いわけはやめる。
今回の企画が、かつてのガンダムファンから顰蹙をかっていることも承知している。
しかし、すでに七年がたっても、人の意思というのは、変わっていない。
先鋭化するところだけが先鋭化して、時代全体の意思はむしろ後退しているようにみえる。
紛争が恒常化している地域、それを支援か扇動している勢力、それぞれに膠着化した意思がみえる。
また、後進国の先進国化は、かつて日本が三十年代に経験した大型消費経済構造を踏襲しようとして、グローバルなバランスをとることを忘れている。
そして、日本は、第一次重消費経済からは脱却しつつあるが、先見性をもたない(二十一世紀への保険を支払わない)経済大国の道を安穏として歩んでいる。
わずかに、それぞれの産業の先端的位置にいる人々の先見性に支えられて国家が安泰であるのだ。が、国歌構造そのものの安全機構の設定はなされていない。
だいたい、かくも老齢化の進んだ国家は、未曾有の事態であるにかかわらず、前世紀の倫理観が横行しているという不思議さを大人たちは、なぜかくも是認するのだろうか?
自己改革の必要に迫られているのに、旧態を維持するための老人支配が横行しようとしているのは時代にとって危険である。
しかし、官僚とか、別のシステムという摩訶不思議な生き物のおかげで、大人たちが生かされているという事態は、奇妙であるのだ。
それは、現在の君たちにとっても、無縁ではない。
むしろ、家庭という、本来人が形成されていくべき最低限度の単位さえも、過多な愛情のおかげで、崩壊のうきめをみるかもしれないという可能性をはらんだ時代などは、異常このうえない事態なのだ。
それでいて、逆に、人の個性、主権を主張するというあまりに、独善が個性としてまかりとおるという極端もある。
この幅の広さが世の中なのだとせせら笑うのは個人の自由だが、そのことが退廃を生み出す土壌となるであろう都市生活者の精神構造も危険であろう。
しかし、田園に生きよといっても、その田園はすでに過去のものとなりつつある時代にわれわれは直面しているのである。
そして、そんな苛酷な環境のなかで人は、若者は、次の時代の希望などはもてないという厭世観に支配されても仕方があるまい。
しかし、青年は大人になる。
いやでも大人になり、いやでも組織の中で硬直化した思考を強要される。
ならば、ウソでもいい、冗談でもかまわない。ニュータイプをやってやろうじゃないか、といったどぎつい台詞を出そうじゃないか。
そのためには、くり返しでもかまうものか。またガンダムなのだ、と自分にもいいきかせるのが、このニューガンダムなのだ、ゼータガンダムなのだ、ということだ。
ゼータガンダムの世界は、前作の七年後、八年に近い七年後の時代に設定をした。
当然、かつてのレギュラーメンバーたちは、それだけ年をとっている。
そして、サブアタックタイトルは『逆襲のシャア』である。同時にこれが、本物語のテーマでもある。
なぜこのようにしたのか?
パート2物のパターンを変えたいからにほかならない。
他意はない。
が、同時にガンダムという物語は、ロボット物である以上にリアルな物語であろうという、かつての視聴者たちの意見に従ったのである。
製作者の都合で、レギュラーメンバーの年齢が永遠に変わらない物語はおかしいからである。
そして、そのような物語作りは、アニメに限らずにあるのならば、その新しい試みに挑戦してみようということなのである。
これが危険な賭けであることは承知している。
しかし、何か挑戦の要素がない仕事は、人を停滞させるだろう。
製作者は年をとり、パワーダウンしているのである。それを活性化するためにも、試みというものは設定をしておいてよいのではないのだろうか?
それが、このたびのゼータガンダム上梓の理由である。
パート2物のジンクスも承知している。
しかし、やると決めたからには、過去のことは忘れて、現在の自分が考えていることごとのすべてを作品に投入する意気ごみでかかりたいのだ。
そのため、アムロ=レイやセイラ=マスには申しわけがないが、年をとってもらった。それにかわるべき世代交代劇を描きながらも、カミーユ=ビダンという少年の時代のニュータイプを考えてみたい。
シャア=アズナブルもまだまだ若い。
その大人としての魅力を引きだす仕事にかかわりながら、もう一度、時代を振り返る仕事をし、己を見てみたいのだ。
おもしろいかどうかではない。
時代はこうなのだ、といった物語を手に入れたい。
そして、この過酷な時代であるからこそ、それに対応できる己を見つけだしたいと願うのである。
そして、この問題は、若い諸君にとっても無縁ではないであろう、と想像する。
君は、生きのびることができるか?
コミックボンボン増刊号「機動戦士Zガンダムを10倍楽しむ本」(1985年5月30日初版発行)より。
掲載されてた本について
この増刊号、色々面白く、興味深い。
1985年4月に発売*2されたのでTV放映は始まっていたことになるのですが、内容の執筆時期は多分その2〜3ヶ月前ってとこでしょう。
結局、サブアタックタイトルは『逆襲のシャア』ではなくなり、予告で使われた台詞も前作の「君は、生きのびることができるか?」から「君は、刻の涙を見る」になり、と、これが放送・最終シナリオの完成前の文章であると判断できるわけです。
また、同時に掲載されているインタビュー*3では、小説版は1巻が発売中だが2巻は手付かず*4等、明かされています。
表紙は(名前書かれて無いけど多分)大河原邦男、巻頭ポスターは安彦良和と永野護が表裏。
ポスターの次に描かれてる口絵も永野護で、「赤い軍服を着て、サングラスは掛けずにオールバックのシャア」というもの*5
アニメの内容抜粋などは、アムロの登場する14話まで掲載。
また、デザイン・設定も豊富。永野護によるノーマルスーツデザインやらリック・ディアスの設定画やら。他誌に先駆けて(のはず?)Zガンダムのデザインも公開されていました。
目次より、記事ページが充実しているのがお分かりいただけるんじゃあないでしょうか。
Zガンダムの企画書抜粋もあり、上記メッセージと同様「逆襲のシャア」が当初のサブタイトルであったことなども。
企画書より
●シリーズキャプション
・・・・君は、命を懸けられるか?
●作品テーマ
人は、現実というまやかしを越えて、その能力を拡大しうるのか?
しかし、まやかしといえども、人は、現実のなかでしか生きてはいけないのだ。
●映像
修羅の連続
ガンダム書籍といえば角川、というのはこの年のNewType創刊以降の話で、それ以前は朝日ソノラマやら講談社やらラポートやらが小説版やムックを多く出していました。
なのでこの本に載ってるのもどれがどこに後で収録されたとか、初出はどっちとかよくわかんないのが多いですね。
実際放映されたTVアニメ とは違ってる点が結構多くあるんですが、この辺資料に関しては「機動戦士Zガンダム大全」か「機動戦士Zガンダム大事典」機動戦士Zガンダム大事典 (ラポートデラックス)あたりに全部収録されてるのかな?
目次ページより構成など
丁度この時期はコミックボンボンで「プラモ狂四郎」が連載されていたというからみもあってか*6構成はクラフト団。
番組スポンサーであったからか、やはりバンダイの協力もあったようで、(その意向を反映してかどうかはわかりませんが)MSV特集なんかも載ってます。
なかなか面白いので、古書店店頭などで見つけたら読んでみてもいいかも。
といったところで今回はここまで。
当ブログの関連記事
- 1982年に人気のあったアニメ、キャラクター、声優などはこんな感じ(作品ではガンダム、キャラ人気投票でシャアが上位など)
- 島本和彦と庵野秀明が大学時代を語った対談記事(Newtype1985年7月号)
- 萩尾望都もマニアへの対応には苦慮していた、という話。「まんがABC」(1974年)、「わたしのまんが論」(1976年)より。
#ちなみに、自分が購入した価格は、安めのラーメンが5〜6杯食べられるくらい・・・でした。まあお買い得。