情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

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少年誌発行部数1位だった頃のチャンピオンはこんな感じ その4 本当に発行部数1位だったのか検証してみる

 いきなりタイトル内で矛盾していますが、細かいことは気にしないように。
 ということで、一応一連の話の最終回。



 事の発端は少年誌発行部数1位だった頃のチャンピオンはこんな感じ その1 基礎データと記事ページ - 情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明のコメント欄より。
 (soorceのコメントは略)

 


# 1978年は 『ジャンプが280万部を達成し出版界で大きく話題になった年ですよ。チャンピオンは2位だったはず。
http://oreryu.eco.to/jump-ron/01syo/1-6.htm』 (2007/01/10 20:35)


# そうかなあ 『何か裏付けるデータあります?そこ頃現役のガキだった自分としては、70年代後半からはずっとジャンプが一番人気、まわりの友達が読んでるのはジャンプが圧倒的でしたよ。チャンピオンは「がきデカ」や「ほうれん荘」で健闘はしていたけど、所詮ジャンプにはおよばないって感じだった。』 (2007/01/10 23:59)


 ということなので調べてみました。



簡単なまとめ


 1978年前後に週刊少年チャンピオンが発行部数1位だったことはあった。


 簡単すぎますか。でもしょうがない。
 では、以上の結論がどのような資料と証言から導き出されたか、という話になります。


 部数について、中立的記述、集英社側からの記述、秋田書店側からの記述を探してみました。
 また、当時の読者としては雑誌上で発表される数字を信じるしかなかったと考えられる為、当時の情報を探してみました。


中立的見解

 『少年ジャンプ』、『少年チャンピオン』、『少年サンデー』などがいずれも200万部を突破、これに『少年マガジン』と『少年キング』を合わせて966万部の発行部数になる。


 出版データブック 1945〜2000(ISBN:4785201029)の1978年のページ(p70,71)より



 サンデーってそんなに売れてたっけ?というのが一つあるんですが、同じページのこの年のヒット漫画タイトルとして


 マンガ
 高橋留美子うる星やつら」、柳沢きみお翔んだカップル」、吉田秋生「カリフォルニア物語」

 

 と書かれているので、まあさもありなん、といったところ。
 ジャンプもチャンピオンも(サンデーも)この年には200万部を超えていたことは確かなようです。


 また、現代漫画博物館 1945-2005(ISBN:4091790038)の資料編では、1980年のトピックとして「ジャンプ・マガジン・チャンピオン・サンデー・キングの5誌合計で1000万部突破」という記述があるのみで、各雑誌の部数に関しては書かれていませんでした。


集英社側の方の見解


 この項の引用部分は全て、「さらばわが青春の『少年ジャンプ』」(西村繁男) (ISBN:4870311720)より。
 ページ数は飛鳥新社版でのものです。
 さらばわが青春の「少年ジャンプ」 表紙


 Wikipedia*1の発行部数や、コメントで教えていただいたページ*2がその数字の根拠としている資料がこの本なので、その辺の記述も再確認してみました。



 第七章 発行記録への挑戦 より

P225


 昭和五十三年三月に、集英社入社当時の目標から十年遅れて、わたし*3は『少年ジャンプ』編集長の辞令を受けた。四十歳の後半だった。



P226


 昭和五十一年最終号の『少年ジャンプ』の発行部数は、ついに戦前の『主婦の友』の持つ百八十万部の発行記録を書きかえ百八十八万部を記録する。



P228


 それはともかく中野*4が編集長として最後となる最後となる五十二年の『少年ジャンプ』の年末最終号は、ついに二百万部の大台を超え二百十万部を記録することになった。


 ここでのポイントは2点ありまして

  • 1977年時点で200万部を超えていたという主張
  • それ以前の号は200万部未満であったのがいきなり210万部というのはおかしくないか?

 ということですが、前者に関しては以下の記述より、西村氏の書き方が独特である為ということが分かります。
 後者に関してはまた後の方で触れます。


P229


 年末最終号から、『さわやか万太郎』を新連載することで



 これにより「年末最終号」は1978年3,4号のことだというのが確定し、ジャンプの200万部突破が1978年度のトピックであることが判明します。
 


P230


 一方読者年齢がどんどん上がった『少年マガジン』は、中学生もはなれ始め苦戦をしていた。
 その間隙をついて後発の『少年チャンピオン』がじりじりと部数を伸ばし、気が付くと『少年ジャンプ』の二百万部に急接近していた。
 『少年チャンピオン』は、『がきデカ』(山上たつひこ)、『ドカベン』(水島新司)、『ブラック・ジャック』(手塚治虫)がそれぞれ絶好調で、これに鴨川つばめの『マカロニほうれん荘』が加わって強気の部数設定で追撃してきていた。
 その上表紙に誇大な発行数を刷り込み、あたかも『少年ジャンプ』を凌駕しているごとく読者を惑わせていた。ジャンプは公称部数も自称部数も無く、正確な実部数を社外に公表するのをモットーとしていたので、『少年チャンピオン』の誇大数字は不愉快だった。長野*5が激怒して編集長に電話で抗議する一幕もあった。
 しかし、読者も同じ小中学生をターゲットとする『少年チャンピオン』が、少なくとも当面の強力なライバルであることは間違いなかった。



 ここで始めてチャンピオンとの確執が語られるのですが、ポイントは3点。

  • 「気が付くと『少年ジャンプ』の二百万部に急接近していた」というのは何時の時点か。1977年内か、編集長就任後の1978年5月以降か。(1978年年頭で200万部突破ならば、この記述が微妙におかしいことになるのでは?)
  • 「ジャンプは公称部数も自称部数も無く」、というがそれは本当だろうか。印刷証明が付く以前は基本的にすべて「公称」部数だったはずだが。
  • 「表紙に誇大な発行数を刷り込み」と書くということは、本当の発行部数を把握していたと取れるが、一体何処からそのような情報を入手したのか、また、その情報は正しかったのか。*6


 あと、「長野が激怒して編集長に電話で抗議する一幕」って、この当時のチャンピオンの編集長は壁村耐三氏だったんですが、壁村氏が既に逝去されているためこれは確認しようが無いですなあ。


 また、あとがきには以下のような記述が有るため、これを全て信ずるわけにもいかないよなあ、といった所もあります。


P283


 ただ七章、八章は記憶に生々しすぎて収拾がつかず、飛ばしすぎたきらいがあります。この部分は、いずれ整理して、別の形で残したいと思っています。


 


秋田書店側の方の見解


 これはWEB上の記事なんですが
 http://www.kanshin.jp/comic-beam/?mode=keyword&id=427459 より。
 当時の週刊少年チャンピオン編集長壁村耐三氏に関する話*7の注釈として出てきます。


週刊少年チャンピオンの編集長として、漫画誌初の200万部突破(ジャンプより早いんですよ)をなし…と、その業績は圧倒的すぎて、ちょっと後輩の我々にとって「高い山」すぎるんですが



(2018/09/21追記ここから)


 という様なことを書いてから11年、秋田書店週刊少年チャンピオン2018年43号に掲載された、チャンピオン50thアニバーサリー記念企画第9回の中で、「1977年に発行部数200万部突破」「週刊少年誌界で発行部数トップ」と記述されていました。
 つまり、秋田書店の公式見解として、(年度とは別に)1977年中に200万部達成、そしてジャンプを上回っていた時期があった、と認めているって事ですね。
 ただし、これはあくまでも秋田書店側だけからの見解である、というのは留意しておく必要があります。
 


(2018/09/21追記ここまで)


 これ以外にも、出展が不明な記述としてではありますが「少年誌として始めて200万部達成」という記述がネット上に散見されます。
 週刊少年ジャンプよりも速い、すなわちその時点ではチャンピオンが発行部数1位であったという見解ですね。
 これの初出を確認できる方がいらっしゃいましたらコメントなどでお知らせください。
 (1978年の初頭?1977年内?)


ジャンプの部数に関して当時の読者が受け取れた情報


 思い出の週刊少年ジャンプさんのサイトにジャンプの全ての表紙画像があるんですが、この中の1978年3,4号に注目してみてください。
 http://www.biwa.ne.jp/~starman/1978/1978jump.htm


 「堂どう210万部突破」と読み取れます。これは公称ではなく実部数・・・なんですよね?
 ここで少々不自然に感じてしまうのが「なぜか200万部をすっ飛ばしていきなり210万部」という部分です。
 チャンピオン側が200万部突破を公称したためにそれに対抗したのでは、と考えてしまうんですね。
 そこんとこ誰か分かる人居ませんかね。


チャンピオンの部数に関して当時の読者が受け取れた情報


 こちらのページに当時の雑誌の表紙と目次が多くアップされているのですが、その中でもチャンピオン関連がこちらにまとめられています。
 http://midori.bandaisan.jp/chan.html


 各表紙の最上部アオリに注目してみると色々と書いてあるのですが、その中でもポイントとなる記述を探すと

 200万部という具体的な数値が(未達成ではありそうですが)出てきてたり、「トップを大独走」「部数もNo1」などの記述が散見されます。
 発行部数1位を自称していたのはほぼ間違いないでしょう。


結論


 1978年前後に週刊少年チャンピオンが発行部数1位だったことがあった。


 と、以上のように結論付けて良いのではないでしょうか。



 ただし、各見解については、どれもある程度の真実とある程度の誤認識が混在しているのではないかと考えられます。


 結局、チャンピオン・ジャンプどっちも発行部数1位を自称していたことがあり、当時の読者からすれば、激しいデッドヒートを演じているように見えた、という程度になってしまいます。
 発行部数1位であったという証明も今となっては不可能っぽいですが、1位になったことが無いという証明も出来ない、といった程度ではありますが。


 ということで結局

  • ジャンプ・チャンピオン・サンデー3誌とも、1978年に200万部を達成した。
  • 週刊5誌を合わせて1000万部を突破したのはもう少し後の1980年。


 という中立的な見解である上記の2点ははっきりしていますが、それ以上となると実際の所はもう分からないでしょう。


 ちなみに、先ごろ更新された一般社団法人 日本雑誌協会のデータによると、現在発行されておる週刊コミック雑誌13誌の合計は10,940,269部となり、1週間に約1100万部発行されていることになります。



 といったところで今回はここまで。



※前回までの記事はこちら

#それにしても、壁村さんが当時のチャンピオンについての事等を書き残す事無く亡くなられたのが悔やまれます。

*1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%80%B1%E5%88%8A%E5%B0%91%E5%B9%B4%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%97

*2:http://oreryu.eco.to/jump-ron/01syo/1-6.htm

*3:soorce註:著者。三代目週刊少年ジャンプ編集長西村繁男

*4:soorce註:二代目週刊少年ジャンプ編集長の中野祐介

*5:soorce註:初代週刊少年ジャンプ編集長の長野規

*6:後述の表紙アオリのことだとするとそれはそれでおかしい

*7:コミックビーム編集長奥村氏、副編集長岩井氏は共に秋田書店出身で壁村氏の元部下