情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

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漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

児漫長屋 第1期漫画黄金時代を語る!(コミックAGAIN 1979年7月号より。1950年代の話)




 週刊少年サンデー週刊少年マガジンが共に創刊50周年を迎えました。
 半世紀ですよ。創刊時から全部読んでる人って居るんでしょうか。


 さて、それじゃあ「その前」ってどうだったのよ、という話です。
 小説、読み物と絵物語の中に漫画が入っていった戦前を経て、1945年の終戦、1940年代末の「新宝島*1、赤本漫画、「漫画少年」の創刊、そして単行本や貸本、月刊誌が乱立し、漫画が現在見られるような「漫画」になっていった時代。
 今回ご紹介するのはそんな頃の思い出を、今から30年前、1979年に語った座談会です。


 また、この座談会に出席してる漫画家の内、うしおそうじ・高野よしてるは週刊少年マガジン創刊最初期の連載作家でもあります。


 当時、風刺中心に描かれる漫画と、児童向け雑誌で読み物や絵物語と一緒に載っていた漫画、「大人漫画」と「児童漫画」に分けられていたようです。
 その中で「児漫長屋」という児童漫画家のあつまりが出来たのが1950年のことでした。
 しかし、この座談会よりも30年前、現在から考えれば60年近く前の話なのでこの座談会の出席者も話題になってる人物も、現在は殆どが物故者となっています。
 可能な範囲で註はつけましたが、間違い等ありましたらご指摘くださいませ。



 みのり書房 コミックAGAIN 1979年7月号P150-153より。
 


 



出席者

阿久津信道*2
1922年12月13日生。*3
昭和24年、二葉社「小学6年」編集長になる。昭和26年「冒険王」編集長を経て昭和27年「漫画王」創刊。現在秋田書店取締役編集局長。

うしおそうじ
1921年12月4日生。*4
映画、童画を経てまんがの世界に。代表作/「朱房の小天狗」「どんぐり天狗」等。現在アニメ会社Pプロダクション社長。

高野よしてる
1924年8月22日生。*5
編集者を経て漫画家に。昭和27年「赤ン坊帝国」でデビュー。代表作/「木刀くん」「13号発進せよ」。現在カメラのタカノ社長。

古沢日出夫
1920年1月2日生。
アニメーターから漫画家に。デビュー「ギッタンとバッタン」代表作/「あっぱれ太閤記」等。現在、アニメの演出家。

鈴木清澄
1941年4月22日生。
本誌編集長。COM残党。今回は少年時代愛読した漫画の先生方に混って、少し子供っぽく見えました。


 似顔絵は岩崎摂。「ピーナッツ」のパロディですね。



戦後の児童まんがのスタートから30年代前半まで、月刊まんが誌の盛衰と裏話をゴールデン=エイジ(?)が語りまくる!!


うしお:そもそも児漫長屋ができた*6ってのは片平さん*7が…
古沢:そうそう、僕が参加したのは片平さんの所だけど、太田じろうさん*8や花野原芳明さん*9達が、島田啓三*10さんを中心にしてね。島田さんが俺は隠居でいいから、月番を決めて何かやればいいじゃないかってことで。
うしお:落語の世界だね。
古沢:そう、その他に福井英一*11馬場のぼる*12、それと僕。手塚治虫*13も関西から行ったり来たりしていて、全部で14〜15人いた。でも児漫長屋では、対外的に発展しないから、というので東京児童漫画家会っていうことになった。


■月に一度バァーッと大騒ぎする!?


鈴木:例会というのは毎月あったんですか?*14
高野:月刊雑誌オンリーの時代だったから、22、23日が最終〆切りで、それが終わって25、26日ごろになると例会という形になりましたね。
うしお:多いときは30人はいたね。
古沢:そうそう月一回集まって、パーッと発散しちゃうんだよね。(笑)
うしお:当時の漫画家の分布は、西部沿線グループと世田谷グループにわかれてた。西部沿線は島田さんが住んでいて、だんだん増えていった。
阿久津:世田谷は入江しげる*15とか宮坂栄一*16とかいたね。
高野:あの2人はほとんど同時に4m位の道をはさんで家を建ててね。どっちかの奥さんと話した時、編集者が来ると、どちらに入るか気になるって言ってましたよ。(笑)
うしお:あの2人はライバルという形じゃないね。漫画家の中でも優等生の方だった。
阿久津:そうだね、ここらと比べると。(高野・古沢両氏をみながらニヤリ!)
高野:あの2人は被害者の立場にあった人たちだからね。
阿久津:西武線グループは群をつくって押しかける!
高野:行動派だったなあ!?
古沢:台風の目・・・・ってのがあってね、福井英一、高野よしてる、山根一二三*17。これが襲ってくるんだよ、順々に。(笑)
高野:夜中すぎると飲み屋はなくなるし金もなくなる。とにかくタクシー代出しあって、古沢日出夫ン家に行こう。次に入江しげるン家行こう。ずーっと回ってだんだん人数が増えてくるんだよ。(笑)
鈴木:何度かそういうことがあったんですか?
古沢:いや、もういつも(笑)
高野:例会の後は必ず襲撃!!
阿久津:一度、手塚氏もいたけど、皆で宮坂さんとこ夜中に行って、冷蔵庫からバナナ出して。珍しかったからね、冷蔵庫もバナナも。僕は食ったねぇ。(笑)夜中にワァーッと襲うわけ。
うしお:夜中に飯炊けとかね、勝手なこと言うわけ。月刊誌時代でしょ。その月に一回の解放感が今とまったく違ってた。


■今はコンベアでしょ だから・・・


阿久津:月一回といっても、発売日が決ってるようで、決ってなかったからねぇ。
うしお:過当競争時代でね、この人(阿久津氏を見ながら)なんかもう若いエネルギーがギラギラしているころだからね。手塚さんなんかアグツ・・・なんて言ってね。漫画ン中になん度も登場するぐらいね。(笑)
阿久津:アグーツ・ノブミッチなんてソ連の悪い奴でね。(笑)でも当時アシスタントなんて全然いないから、先生方一人一人が欲張ってひきうけて、結局後で苦しんでたわけですよ。
古沢:いや欲張ってひきうけるんじゃないんだけれども。
高野:そうそう。ひきうけねえと乾し上げるぞっていう感じで来るからね。
鈴木:当時流行のカンヅメ・・・・はどのへんで?
阿久津:会社によって決ってましたよ。まだ焼け野原で旅館の数も少なかったし。
高野:ところが手塚治虫ぐらいになると、決った所行くと見つかっちゃうから、いつも場所を変えるわけ。ある時、一緒の旅館で仕事したら足首のところにロープが巻いてある。それが外に出て下の道路まで下がっているんです。わけを聞いたら、何社も自分を指名手配しているけど、そのヒモは一社にだけ通じていて、その社の人が下でチョンチョンとひっぱったら自分は下に出て行くというわけ。よく見てたら全社の人がひっぱってたね。
うしお:当時のやり手編集者は、阿久津さんと講談社の牧野さん(現/マイヘルス社*18社長/講談社役員)でね。
阿久津:僕は大体2日で捜しあてましたね。
うしお:多分にゲーム性みたいなところがあってね。今みたいに出版業が大手企業じゃないから、描き手と送り手の間の人間的触れ合いが強かった。
阿久津:強かったね。(しきりにうなづく)
古沢:今は、システムがすっかり変わってしまったから……。
阿久津:うん変わった。
古沢:そりゃ昔は、原稿用紙に線からベタまで一切……。
うしお:自分で描いてた。
古沢:今はコンベアでしょ。だからね、そこに何かあるんじゃないかなあ、やっぱり。


■悪書追放運動がPTAで大流行


高野:あれは何年か忘れたけど、7人の漫画家が集って、別冊漫画の原稿料が安すぎるというので連署を作ったことがある。僕もたまたまそこにいて、なりゆきで連名の中に入った。結局出版社がこちらの要求をのんで倍額になった。当時黒沢明監督の「七人の侍」が封切られたばかりで、僕等も七人いたから「七人の侍の会」という名前になりました。
鈴木:昭和28年*19頃ですね。
うしお:そうだね。その7人てのは手塚、馬場、福井、古沢、大田、山根、そして高野。僕はあとから入った。高野さんが福井さんを連れてきてね。福井さんが亡くなった後*20、また値上げをやったんです。その時は6人だった。
古沢:あのね東京児童漫画会ができてからね、編集者の組合ができたんだ。それに対抗するために。(笑)
鈴木:編集者の新聞がずいぶん長い間出てましたね。
阿久津:あれはね、漫画家に対抗するためじゃないんです。例の「悪書追放運動」に対抗するためですよ。漫画は俗悪なものだから追放すべきだという世論がやたらと起こって。第一次漫画ブームで、「銀河」とかそういう前からの少年誌が売れないわけです。ところがお母さん方とか先生方ってのは心情的に、そちらに味方するわけね。PTAが“まんがは悪書だ”ってんで問題になった。それに対抗する型で、講談社小学館の音頭で「児童雑誌編集者会議」というのができた。各社から一名づつ出て、秋田からは僕が出た。それで静岡とか長野のPTAの講義大会に呼ばれて、話しに行くわけです。「教科書が主食で、漫画は副食だ。ごはんだけでなく、子供達は副食もほしがっている!」とね。教育県の長野あたりはいくら言っても解らなかったですね。これはウチばかりでなしにこの運動でかなりのまんが雑誌の部数が落ち込みましたね。
うしお:今と比べると雑誌の数はほんとに少なかったけど、付録が沢山ついていて、今のブームのような熱気がありましたね。そのハネ返りとしてでてきた運動ですね。漫画家のほうも池袋の「えんかく」という所に集りまして第三者をオブザーバーに入れて、すったもんだ3、4回討論会をやりました。自粛しなければいけない、という意見もあれば、いやそんなのかまわないからやっちゃえみたいな意見もあった。皆やっぱり生活がかかってるから真剣にやったわけですよ。でも俗悪の基準というのは非常にアイマイでしたね。


■ハングリーなエネルギーが爆発!!


うしお:娯楽誌の内容で、まず文章だけの小説がなくなって、絵物語が全盛となり、26〜27年*21頃から漫画が中心というようになったですね。
阿久津:子供の嗜好の変化ですね。終戦直後、我々にとって少年誌の見本は「少年倶楽部*22で、漫画は4頁か8頁位でしたからね。小説がなくなり、絵物語半分漫画半分でやっていくうちに手塚治虫、福井英一、あるいはここにいる先生方の傑作がどんどん出てきて、絵物語が徐々に消えていったんです。
鈴木:漫画の付録が初めてついたのは何年ごろですか?
うしお:僕が覚えてるのは手塚治虫と福井英一が「少年」*23で始めたのが最初でしたね。
阿久津:ウチはねえ、最初の別冊付録は絵物語だったんです。その時神保町に「週刊漫画タイムス」*24という新聞があったんです。そこでやってたのをまとめて本誌と同じサイズのB5版で付けたんです。
古沢:そういう再録という形で始まったんだよね。
阿久津:うん、最初からオリジナルじゃないんです。それを、新年号の付録に絵物語と漫画の両方をくっつけたんです。それがものすごく当たった。
高野:その頃は横井福次郎*25とか塩田英二郎*26とか。
古沢:そうそう、活躍していた。大人の漫画の人達がね。
阿久津:僕等も児童漫画の連中を使う前はね、小川哲夫*27とか那須良一*28、和田義三*29といった「漫画集団*30の漫画を使ってたね。
鈴木:児漫長屋が結束していったというのが第一次ブームの起爆剤になってると思うのですが、いわゆる大人漫画家達が、児童漫画誌に描かなくなっていったのはいつの頃からですか?
うしお・阿久津:26、27年*31頃でしょうねえ。
阿久津:今言ったように、それまでは「漫画集団」の人が主要な頁を占めていたけど、福井英一なんかも新人として描いていたわけよ。彼も頼まれれば大人のエロ物も描いていたしね。
古沢:けどあの人のはエロになんねぇんだよ。(笑)今の話だけど、漫画の形の推移ということですよね。それまでの児童漫画は「正ちゃんの冒険」*32なんかにしてもとてもシンプルだった。それじゃ、戦後の漫画ってのを、どういう形で変えていったらいいかってことで、映画的手法というのが出てきた。これは手塚さんの独創じゃなくて僕達のひとつの傾向でしたね。
高野:26、27年頃は映画の全盛期だった。黒沢明の映画もチラッチラッと出てきて*33、とにかく映画に憧れましたね。その手法というのが、とても斬新で魅力的でしたよ。
古沢:まあね、それは手法だけじゃなくて、漫画は文学に通じるというような傾向があったですよ。今はばらばらになっちゃってるけど、そういう形になっていってるんじゃないですか。
鈴木:いわゆる大人漫画とは違う熱気みたいなものがあったわけですか。
古沢:そうそう。
高野:漫画集団」の人達は子供に描いてやるといったようなところがあった。僕等はもうまともに取り組んでやってみようじゃないか、という熱気があった。
古沢:漫画集団」の人達もその前の岡本一平*34のスタイルからパッと別れたでしょ。戦後では僕等がね、必然ですね。
うしお:僕は漫画史ってのは需要と供給の問題が根本にあると思う。大手の出版社はね漫画をいち段低く見ていて、漫画は主流じゃないわけ。ところが需要はあった。それを満たしたのは、あのガード下なんかで売っていたぞっき本*35だね。福井英一だって、大田じろうだって、馬場のぼるだって、我々だって、みんなぞっき本から描いていたんですよ。本を描いて持っていくとね、百円札でこれくらい(指で3〜4センチ)くれるんです。20代の我々にとっては、それが魅力でした。その後「漫画少年」とか、「冒活」とかいったのが需給のバランスをとろうってんでぞっき本の作家を使った。大人漫画の人たちはエリート意識が強かったけど、こちら20歳代のバリバリはねえ……。
高野:ハングリーなんですよ。
うしお:そう、ハングリーがエネルギーを爆発したときは、たいへんな起爆力になるわけ。
鈴木:そのあたりは貸本漫画家が昭和38、9年から40年代にかけて続々と雑誌に入ってきた*36のと同じような状況ですか?
うしお:そうそう。


■娯楽はみんな西高東低


阿久津:あれは水島新司*37がまだ18、19の頃、大阪日の丸文庫に住み込みで居てね。この先生方も峠を越したんで何か新しい人をひっぱってこなくちゃいけないってんで、日の丸文庫の山田さんを知っていたから、大阪へ行ったんですよ。水島は「影」*38に32頁位描いていて、あと平田弘史*39が時代劇を描いていた。この二人を山田さんに紹介されて、「冒険王」*40で読み切り物を4頁だか5頁だか、3、4回やりました。でもかけだしだから、全然人気が出ない。それでなんとなしに、やめてしまったんです。まあ、その後から出てくる山上たつひこ*41にしたって、東京に比べると、はるかに金銭的にうるさい大阪で、ハングリーな状態にいたわけですよ。それで、今日の大阪出が強くなっている、というのがありますね。
鈴木:以前うしお先生と話したんですが、今日の手塚治虫を筆頭にして関西系列の台頭という、この西高東低の漫画界、劇画界のムードというのは、どういうところによるんでしょうか?
高野:やっぱり金銭に対する厳しさ、それとハングリーさによるんですかなあ。
古沢:それはね、個人的な資質があると思いますよ。
うしお:関西人と関東人の個性の違いだと思いますね。娯楽というのは、とにかくエンドレスにずっとやっていかなければいけないわけでしょ。そうすると、やっぱり生命力の強い方が勝つわけですよ。関西人のほうが商売とか娯楽にかけては、はるかにバイタリティーがあるからね。関東人てのは、あきらめが早いってのかな、ねばりがないですね。娯楽はほとんど、この西高東低ですよ。落語でも万才でも。
阿久津:それと前述の日の丸文庫の山田さんの偉大さだと思いますね。東京では、色々な出版社から単行本が出てたけど、みんな雑誌に出たのを集めて本にする、という消極的な出版社が殆どだった。ところが山田さんは、単行本みたいな体裁だけど、月刊誌として出してた。しかも新人募集を積極的にやっていた。我々出版屋というのは、そこまでやらなくても、漫画家の数は足りていた。その間に有望な人は皆山田さんを慕って行ってる。あの山田さんのファイトとエネルギーが、現在一線で活躍している作家たちを大阪に集めたんだと思う。


■もし、福井英一が生きていたら!?


鈴木:手塚先生が自伝「ぼくはマンガ家」で、福井英一が死なずに、あのまま仕事を続けていたら自分は描くのをやめたかもしれない、と言ってますが・・・・・・。*42
阿久津:あのころ福井英一は「イガグリくん」*43に全力投球していて、どの漫画もかなわなかったからねえ。
古沢:彼は好骨漢で、それが「イガグリくん」とピタっと合ったというのが、ひとつの成功した理由だね。
うしお:手塚さんは、相手をよろこばすために、そういうことを言う人ですよ。
鈴木:もし彼が生きていたらどうなっていたと思いますか。
阿久津:彼も映画出身だから戻ってたろうなあ。あの時代のあの時で福井英一で、手塚さんとは違いますよ。

古沢:僕もそう思う。
高野:「赤銅鈴之助*44の動機は僕が「木刀くん」*45でうけてた。それじゃ剣道物で僕をやっつけるってんで始まった。それで僕も小学館の方で柔道物を始めた。(笑)
うしお:「赤銅」の功績は武内つなよし*46さんにあると思う。福井さんだったらすぐあきらめてたでしょう。死んだから伝説の人になったんですよ。
高野:手塚さんとは洋風と和風みたいな違いですよ。
阿久津:事業を起こしても成功しなかったろうなあ。


■月刊誌時代から週刊誌時代へと


阿久津:34年*47の3月に「少年サンデー」と「少年マガジン」ができましてね。二年後の春に赤字が出なくなるまでは、両方大手だからやめるわけにいかない。「お前の所がやめたらうちもやめる」って言い合ってたんだよ。(笑) そのうちテレビの普及もあって、子供の頭のサイクルが月刊から週刊に移ってきて、月刊誌がどんどんポシャっていったんです。
うしお:でもその前から、既に廃刊、休刊になる現象は起こっていたでしょう。
阿久津:うん、「野球少年」*48、「少年クラブ」*49、「太陽少年」*50とか、資本の無い所は、どんどん月刊誌をやめていった。ただ「少年」*51は、児童物は嫌いだという経営者の意向で、赤字じゃなかったけど、やめたんです。
鈴木:皆さんが休筆された直接の原因は?
古沢:僕は10年位児童漫画を描いたけど、戦前からアニメーションをやってたでしょ。それが捨て切れなかった。自分にはアニメの方が表現が豊かでピシッとくる気がしたんだ。
高野:編集者から漫画家になって、一生懸命やって少しでも上に行ってるうちは良かった。そのうちある程度までいったと思う時代が来た。これからは下り気味だな。それならなんでも一流がいいってんで商売始めて社長になった。それとテレビが出た時に、動くものと、音が出るものができた。これでもう雑誌漫画はいかんと思った。大誤算だった。(笑)
阿久津:まあ、それに歳にもなってきたしね。
うしお:年でもね、描くだけの能力もパッションもあると思うけど、一寸ニュアンスが僕の場合は違う。広島の方にね、15歳か16歳の漫画の先生ができちゃったんですよ*52。これはショックでしたね、。児童漫画の場合、少年を描くのに、少年漫画家が一番ダイレクトなわけ。僕等はもう30〜40に近かった。かなわないと思ったね。


  *  *  *  *


鈴木:最後にこれからの人達に先輩としてアドバイスを。
古沢:金にならなくても自分の失望しないものを描いてればいいんじゃないかな。自分の中の何かと合った時はアピールすると思います。
高野:今は変化も激しく早い。そういう中で描く題材がたくさんあるはず。僕が若かったら描いてみたいですね。
阿久津:児童漫画は年をとるとついていけなくなる。編集者もね。で若い人達が出てくるけどポシャルのも早い。関西勢の前にトキワ荘グループがいたけど、やはり努力するグループが出てくるね。
古沢:でも10人のうち3人ものになればいい方。野球と同じで3割です。
鈴木:本日は、どうもありがとうございました。



昭和54年5月10日 水道橋「滝沢」にて収録。


 本文全景。
 
 



 さて、この座談会の内容などでいくつか気になる点があったのです。

手塚治虫と福井英一

 鈴木:手塚先生が自伝「ぼくはマンガ家」で、福井英一が死なずに、あのまま仕事を続けていたら自分は描くのをやめたかもしれない、と言ってますが・・・・・・。


 これなんですが、「ぼくはマンガ家」は1969年が初版。
 ところが1979年に改定版が出てるんで、鈴木氏が読んだのがどの版か判然としません。
 その後も別バージョンがあるのですが、とりあえず、1988年に出た改定新装版ではこういう記述になっています。


 福井英一の死


 それから一ヵ月ほどたって、旅館にいたぼくに、仲間から突然電話があった。早朝だった。
「福井氏が死んだぜ」
「なんだって!?」
「今朝がただ。みんな呆然としてる。すぐかれの家へ来てくれ」
「な、なぜ死んだんだ?」
「徹夜で外で仕事をして、明け方飲んだらしい。そのままうちへ帰って、ポックリいっちまった。頭痛がするというので、医者が一応診たんだが、その医者が帰ってすぐの出来事なんだ」
「すぐ行く」
 ついていた記者を拝みたおして、ぼくは旅館をとび出した。


 ――福井氏が死ぬとは・・・・・・人気絶頂というときに・・・・・・惜しい奴を惜しいときになくしたもんだ――
 だが、その人の死を悲しもうという心境は、どろどろした暗黒の思惑によってしだいにけがされていった。
 ――ああ、ホッとした――
 なんという情けないおれだろう、と、つくづく嫌になった。だが、はっきり言って、これでもう骨身をけずる競争はなくなったのだ、という安堵感を覚えたというのが本音であった。ぼくの心に、巨人のようにのしかかっていた"人気競争"に、ぼくはまったく疲れ果てていたのだ。
 

 手塚治虫「ぼくはマンガ家」(大和書房)1988年新装版 第一刷 P136-137より。


 今出てる、ぼくはマンガ家―付録・デビュー作品ぼくはマンガ家―付録・デビュー作品は中身的に最初の毎日新聞版と同じなのか改定の方なのか・・・。初版をもってる方に確認していただきたいところではあります、が、これ読むと自分がやめるってな話じゃないですよね。


 また、この事件に関しては石森章太郎の「マンガ家入門」にも手塚治虫から石森章太郎あてに来た手紙が紹介されています。


 夏も終わりに近いころ、ぼくにとってショッキングな事件が起きました。
 手塚先生から、ヨレヨレのハガキがきました。


「福井英一氏が亡くなられた。今、葬儀の帰途だ。狭心症だった。徹夜で仕事をしたんだ。終わって飲みに出て倒れた。出版社が―――殺したようなものだ。悲しい、どうにもやりきれない気持ちだ。おちついたら、また、のちほどくわしく知らせるから・・・。」


 手塚先生の悲しみが、行間からにじみでているようなハガキでした。
 福井英一は手塚先生の親友でした。

 石森章太郎「少年のためのマンガ家入門」(秋田書店)1967年18版*53から。


 これはちょっと主観交じりなのがわかるけど、ハガキを出したってことを創作する意味が無いからあったことなんでしょう。


 うーん、手塚治虫は自分に関することを書く時はちょっとアレなんですが、そこまでは言ってなかったのかも・・・くらいかな。


ここに名前の出てる漫画家の作品は入手可能か


 うしおそうじは、漫画は復刻されてません。書籍も手塚治虫とボク手塚治虫とボクがかろうじてあるくらい。ただ、原作を多く手がけているので、ライオン丸関連(G含め)はそれなりに。


 高野よしてるは、マンガショップが復刻してる13号発進せよ13号発進せよ(上) (マンガショップシリーズ (42))13号発進せよ(下) (マンガショップシリーズ (42))があります。これは週刊少年マガジン最初期作品。


 古沢日出夫水兵さん・おもしろ雑学ってのがアマゾンにはありますが、漫画はまあ無いでしょう。


 福井英一は無いけど、武内つなよし赤胴鈴之助赤胴鈴之助 第1巻少年ジェット少年ジェット 第1巻があるか。これもつい最近ですが。


 手塚治虫水島新司平田弘史血だるま剣法・おのれらに告ぐは普通にありますが、それ以外に名前の挙がってるのだと・・・馬場のぼるの絵本11ぴきのねこ、正チャンの冒険の復刻版正チャンの冒険、てなとこかな。


 この座談会当時でも殆ど無かったであろうってことを考えると、この内容を注釈無しに理解できると考えられていたコミックアゲインの読者層はそれほどにマニアックだったかのと。
 確かに吾妻ひでおの「狂乱星雲記」や阿島俊*54の漫画時評が載ってたりしますが、ねえ。


  




 といったところで今回はここまで。

当ブログの関連記事

 



#「ぼくはマンガ家」と「マンガ家入門」については別項でまた。やっぱり面白いわ、これ。

*1:最近復刻されました。完全復刻版 新寶島

*2:註:「手塚番」として有名。筋で言えば、現コミックビーム編集長奥村氏の師匠が壁村耐三氏、さらにその師匠にあたるとも言える

*3:註:2007年没

*4:註:2004年没

*5:註:2008年没

*6:註:昭和二十五年、1950年頃との証言がある

*7:註:かたびら・すすむのことか?

*8:註:1923年生まれ、1982年没。「こりすのぽっこ」など

*9:註:1921年生まれ、1979年没。漫画家、挿絵作家。

*10:註:1900年生まれ、1973年没。「冒険ダン吉」など

*11:註:1921年生まれ、1954年没。「イガグリくん」など。この時でデビュー2年目くらい。

*12:註:1927年生まれ、2001年没。「11ぴきのねこ」など

*13:註:1928年生まれ、1989年没。

*14:註:最初の例会は神田某所だったとのこと

*15:註:1926年生まれ。

*16:註:1926年生まれ。

*17:註:1924年生まれ。

*18:註:2009年現在はマキノ出版の方が通りがいいか?

*19:註:1953年

*20:註:1955年頃

*21:註:1951〜1952年

*22:註:講談社。1914年創刊、1962年休刊

*23:註:光文社。1946年創刊、1968年休刊

*24:註:週刊漫画TIMESと同一?芳文社

*25:註:1912年生まれ、1948年没。漫画家。

*26:註:1921年生まれ。

*27:註:小川哲男の誤植か。1912年生まれ、1987年没

*28:註:那須良助の誤植か。1913年生まれ、1989年没

*29:註:1913年生まれ、1990年没。漫画家、絵本作家。

*30:註:1932年設立。「フクちゃん」の横山隆一など

*31:註:1951,52年

*32:「正チャンの冒険」1923年〜1926年頃の作品。織田信恒×樺島勝一

*33:註:「羅生門」、「白痴」、「生きる」などがこの頃

*34:註:1886年生まれ、1948年没。岡本太郎の父

*35:註:ゾッキ本、ゾッキ、とも。手塚治虫の「ライオンブックス」もそうして売られたとの記述が「ぼくはマンガ家」内にある

*36:註:これは「劇画」の流行や、貸本が通常の漫画雑誌に追われて不況になった、など他の要因もあったろう

*37:註:1939年生まれ。「ドカベン」など

*38:註:1959年創刊。伝説的劇画貸本

*39:註:1937年生まれ。「血だるま剣法」など

*40:註:秋田書店。1952年創刊。

*41:註:1947年生まれ。「がきデカ」など。

*42:註:すいません、自分が持ってる1988年の新装版だとみつかりません。後述。

*43:註:1951年から冒険王に連載。実写ドラマ化。

*44:註:1954年より少年画報に連載。ただし、第一回が掲載された直後福井英一が死去したため、武内つなよしがそれ以降を描いている

*45:1954年より冒険王で連載。

*46:註:1926年生まれ、1988年没。

*47:註:1959年

*48:芳文社。1947年創刊、196X年休刊。

*49:註:講談社の少年クラブのことか?そうでないなら不明。

*50:註:妙義出版社。1950年創刊、1955年休刊

*51:註:光文社。1946年創刊、1968年休刊

*52:註:松本零士は16歳でデビューしたが、九州なので違うか

*53:1965年初版

*54:米澤嘉博