すべての芸術作品で、本当に新しいものが世間から受け入れられるには、かなり長い時間を要します。
小説の読者は絶えず新奇を求め、飽きっぽく移り気のように見えますが、それは表面だけのことで、少なくとも一般の読者は馴れた感受性の動きからひきだされることは好まず、既成の感覚の軌道のなかで快く揺られることをしか*1求めません。
時代の精神に新たな次元を招き、それを理解するには読者や観衆の姿勢を変えるような新しさを持つ作品が、世人の頑固な偏見とまず闘わなければならなかった事例が芸術史のいたるところに見られる所以です
(以下略)
中村光夫「風俗小説論」(1951年河出書房市民文庫版) ASIN:B000JBFWIK P11-12より。
(旧かな・旧字体漢字を現代風に改めています。)
50年以上前の文章だけど、自分はこの「一般の読者」とそう変わってないな。
アニメやTVゲームやFLASHやニコニコMADなど、表現媒体は色々増えたけど、自分がそれら全てを受け入れられているかというと全然ですわ。
だけど、それを作る人と面白いと感じる人が居ることを、その感性と感情を否定するのは意味が無いということは常にわきまえておかないといけませんよね。
食べ物だってそうだ。考えてみりゃトマトもレタスもピーマンもバジルもパセリもほんの150年前の殆どの日本人は食ったこともなかったんだろう。
トマトミートソーススパゲティーは美味しいじゃないか、と今言うのは簡単ですが、それは現在の感覚に過ぎないんですよね。
でも、味噌や茄子や筍が好きだからって、逆に文句を言われる筋合いも無いんだけど。
#そういうわけで明日は「春の文学フリマ2008」に行ってきます。読者として。