情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

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江戸時代の大食い勝負の例



 落語で言えば「そば清」*1なんかが大食いネタですが、逸話や武勇伝としてでなく、大食いそのものを目的とした例ですか。
 観客はどのくらい居たんでしょうかね。


 慶安(一六四八〜一六五二)の頃というから江戸も初期になるが、江戸・大塚に、地黄坊樽次じおうぼうたるつぐという者がおり、大酒飲みで酒戦をおこなったとある。この酒戦にもちいた盃は、七合入るという大盃だったという。


 これらの基盤の上に十九世紀、江戸も後半にさしかかる頃、一八一七年(文化一四)に両国・柳橋万屋八郎兵衛の屋敷にて「大酒大食之会たいしゅたいしょくのかい」なるものがもよおされた。競った食べ物は酒、菓子、飯、鰻、そばなどで、昨今のテレビ番組での大食い競争は、すでに江戸人がやっていたことでもあった。
 まず大酒のグループでは、三升入りの盃を六杯半飲んで倒れ、長い休憩の後、水を茶碗に十七杯飲んだのは芝口の鯉屋利兵衛三八歳であった、と記録されている。
 菓子のグループでは、饅頭を五〇個、ようかん七本、薄皮餅を三〇個一気に食べた上に、茶を十九杯飲んだ者がいた。
 飯の部では飯五〇杯、唐辛子五把、あるいは飯五三杯に醤油三合などの記録があり、茶碗の大きさは茶漬け茶碗をもちい、万年味噌をおかずに香の物つきで競っている。
 そばは中型の平(皿状の椀)に盛り上げたもので六三杯、おもしろいのは鰻で何匹という争いではなく、金に換算されているのでよくわからない。最後に真意のほどが怪しい旨まで書かれているが、こういうことがおこなわれ、食を遊戯化していたということがわかる。


江戸のファーストフード―町人の食卓、将軍の食卓 第四章 大江戸グルメブーム P160〜「食のゲーム化」より。

 

 


 江戸時代の人は現代よりも体格が小さかったとか、一合の量が違うとか、アルコール度数が違うとか、そういうのを抜きにしてもとんでもない量に思えます。
 ましてこの頃じゃドクターストップなんて無さそうですしね。





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#食キングで幕末番外編をやってくれた土山しげるならば、喰いしん坊!の時代劇番外編を描いてくれると勝手に期待しておきます。

*1:「蛇含草」