戦いはただそれだけで、その瞬間を描いて見せるだけで面白いものになり得ます。
バトルとは勝敗という形での優劣の決定だから、本質的にスポーツであり
再び、尾田栄一郎『ONE PIECE』 - 紙屋研究所
というのがどうも納得しがたいんで少し真面目に書いてみます。
バトル漫画はスポーツやその系統の物語から発展したものではなく、殺し合いとその過程を描いた物語から端を発したものであり、そこに戦い・勝負のみが描かれ、努力だの途中経過が無くてもなんの問題も無いと言えるはず。
はて、「バトル」ってなにか違うものを指してるんだろうか。
古くを辿ると、日本では平家物語あたりになるのでしょうか。
平敦盛と熊谷直実の一騎打ち、那須与一の扇の的、源義経の五条大橋の戦い、一ノ谷合戦など、ある人物の力量をもっての力比べや一騎打ち、合戦など、多くの「バトル」が描かれております。
時代を下って江戸。講談、黄表紙などにも、そのような物語が多く見受けられます。
太閤記・太平記における武将の一騎打ち、真田三代記の勇士たち、南総里見八犬伝の八犬士、宮本武蔵の武勇伝。
これらはまさに勝敗の決定をエートスとするものなのですが、スポーツなんかではない、勝負であり、合戦・殺し合いに他なりません。
そして、努力の痕跡なんてものは欠片の必要も無いのです。
同じく講談で言えば、寛永御前試合。
複数の流派の剣士達がその技を1対1で競い合う。これは「それぞれ独自の能力を持った」人物によるバトル漫画に連なってると考えるのが自然ですし、無視することは出来ないでしょう。
この試合に臨んだ剣士達は、出場までに不断の努力と修行を経てその技量を向上させてきたのだ、とは言えますが、その修行についてみっちり書かれなかったからと言って、想像で補えないものでは決してありません。
歌舞伎の例も一々挙げてると限が無いのですが、一騎打ち、仇討ち、討ち入り、それらの前に修行も努力も描きません。
その後の小説や時代劇映画などにおいても、修行の過程が描かれないものは弱いという事は無く、丹下左膳、座頭市の例を挙げるまでも無く「ただあるがままに強い」キャラクターというのを否定するのは逆にナンセンスですらあります。
さて、このような殺し合いと一騎打ちの系譜から、現代のバトル漫画に至るには、もう一つ飛躍が必要でした。
それは、魔法と言っても良いし、超能力と言っても良い、なんだかよく分からない、科学的には説明不可能な力「異能」です。
ONE PIECEの「悪魔の実」は、「同時期に同じ実は一つしか存在せず」「一人の人間は一つの実の能力しか宿せない」*1というルールから、「異能」によるバトルの系譜に位置する設定であるということが出来ます。
そんなものがある世界なんて非科学的だ!と言うことだって出来るでしょうが、そういう人は「物語を読む」ということ自体困難だと思うのでもうどうでもいいです。
あの世界においては当たり前の事象であり*2、それは科学的な努力や修行ではどうやっても辿りつきようのないものです。
話を戻して、「異能力者」によるバトルというものが誕生したのは何時ごろなのか。
山田風太郎の忍法帖シリーズ最初の一作「甲賀忍法帖」が1958年に連載開始されています。
漫画で言えば、1対1、1対複数の「術者ごとに異なる異能」による戦いというのは、白土三平の「忍者旋風」が1959年〜、横山光輝の「伊賀の影丸」が1961年〜。
約50年前には「人間の科学的限界を超えた能力で殺し合いをする」作品が誕生しています。
そこから現在まで、必殺技の名前だけなんだか違うものから、相性や特性を考慮したもの、鎧が違うだけじゃねーかというもの、様々な「異能」バトル作品が出てきています。
山風忍法帖からしてそうなのですが、彼らの能力は、精進だのなんだの、そういったものにあまり関係ありません。
魔眼のようにそう生まれ付いたのだ、という説明のものもあれば、蟲毒によって得たのだ、修行をしたのだ、と言ったところで、経過が細かく描かれる事も無く、そして、それが勝敗を決定付ける要因ともなりえない。
ジャンプで言えば、キン肉マンの超人たち、リングにかけろから聖闘士星矢などの車田漫画、ジョジョの奇妙な冒険の「スタンド」、HUNTER×HUNTERの念能力者、NARUTOの忍者、BLEACHの死神、どれもその系譜に属すると言っていいし、彼らのバトルにおいてスポーツと重なる要素はほぼ皆無と言えるのではないかと思います。
ということで最初の一文に戻るのですが、戦いはただそれだけで、その瞬間を描いて見せるだけで面白い。
それが、通常の人間には不可能なものならばなおさらのこと。
「強さの説得力」分析チャート
じゃあ、「強い」って何か「説得力」はどうやって描かれるか、と言う話。
バトルにおいて、その人物がどうして強いのか、という説得力がどこから来るのか、というのを考えてみると、こんな感じで表せるのではないかと考えています。
縦軸に先天的なものか後天的なものか、横軸に自己由来か他者由来か、というXYチャートにしてます。
言い方や言葉としてはもう少し適切なものがあるかもしれないし、例にしてもそう。なんかあったらコメントでもはてブでも。
もちろん、ここにあてはめ難いのがあるも知ってる。「ゲッター線による能力開花」は、他者由来でありながら自己の進化の可能性に限界を規定される上に、肉体の強さと根性でどうにかなったりする。
強さに説得力を持たせる場合、どれか一つではなく複合して、影響しあって説得力が増すのではないかと。
左上から右下にABCDとして、
D:後天的かつ自己由来なのは、「努力」。自分がやった事が結果に結びつく。
全ての登場人物の元々の能力も環境も同じだったら、ここの結果が直結する、が、そんなことはありえ無い。
スポーツマンガでも現実でも、圧倒的な才能を持つものに努力を重ねてきたのが負けることはよくあることだ。
(もちろん、努力をしてたから才能を上回れた、なんていう筋もよくある、が、それこそ科学的ではない精神論だ)
ルフィで言えば、「ギア」もここ。Cがあっての発想と実現ではあるけど、アイデア勝負も範疇。
C:後天的で他者由来なのは「悪魔の実」。落ちモノと呼ばれるのも、ドラえもんも、ここになるでしょう。
運といってもいいし、棚ボタといってもいい。「相性」が出るのはここかDで能力付加された場合ですね。世界最高の剣士である鷹の目でも、バギーを斬り殺すことはできない。
ただ、それに甘んじてると「能力バカ」でしかない。
B:先天的で自己由来は「才能」。血統と何が違うのか、と言われると、前評判の差というかそういうものか。
「覇王色の覇気」はこっちでしょう。
A:先天的で他者由来は「血統」。
生まれる前からの呪い、なんてのもここに入れられると思う。決められた運命、といってもいいし、逆に弱さにも通じる。
「ドラゴンの息子」はここだろう。
「友情・仲間」は相手があって成立するので、C,Dを跨っていると考える。
幼馴染とか兄弟だって、後天的に入るかなーと。
自己由来でも、先天とも後天とも言いがたいこの辺。
例として「スーパーサイヤ人」と書いたが、サイヤ人でありながらおだやかで、かつ怒りによって目覚める・・・ということで。
眠ってた力が目覚める、イヤボーンがこの辺。
NARUTOの尾獣なんかはこの辺かなあ。
何時人柱力にされたかにもよるけど、九尾の場合は物心付く前だし。
適当な自分が好きな既存作品の主人公を考えて、それがこのチャート上でどことどこから由来するのを持っているか考えてみると、自分がどうしてそれを好きなのか、を確認できるかもしれません。
この中でどこか一つが描かれていないものは説得力が無い作品である、と決め付けるのは簡単なんですけど、敢えて他の要素を先に出しておいた、って取れないのかなーとか。
ああ、そうそう、「勝利」や「敗北」は結果であって、そこまでの説得力とは無関係な場合も多々あります。
といったところで今回はここまで。