情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

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漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

ゲド戦記の映画化に関して感じている違和感とかについて


 宮崎吾朗*1の「ゲド戦記監督日誌」(http://www.ghibli.jp/ged_02/)を読んで一寸悩み中。


 いや「絶望した!」とまでは言いませんし、読者がどの様に作品を受け取るかは作者の意図や考えとは全く無関係で良い*2と思ってますけど、その作品から再生産(というか別の作品への展開か)をする人がその作者の単なる読者であるのはどうなのかなあ、とか。


 作者がその物語達について語ってる文は読んでるとは思うんだけど、でもやっぱり、仕方ないのかなあ。


 以下は、夜の言葉@ル=グウィン*3より引用。

影との戦い』において最も子供らしい点と言えば、その主題ではないかと思う。つまり、成熟の年代である。
成熟の年代、ここに至るプロセスにわたしは長い年月を要した。わたしが意志するかぎりにおいて、これを終えたのは、およそ三十一歳ころだった。そして今、わたしはそれをいっそう深く感じている。青年期にあるほとんどの人も同じ感情を持っているだろう。事実、これは若者の意識を占めている中心的な問題なのである。
『こわれた腕輪』の主題は、一言で表現するならば、性である。この作品にはさまざまな象徴性がみられるが、書いている最中には、むろん、意識的な分析はほとんど加えなかった。シンボルはすべて性的なものとして読むことができる。より厳密には、女性の成熟の年代と呼ぶことができるだろう。誕生、再生、破壊、自由------これがテーマである。
さいはての島へ』は死を扱っている。この作品が他の二作に比べていくぶんできが悪く、深みと精細さを欠く原因はそこにある。前二作の主題は、すでにわたし自身が生き、通過してきたものだった。『さいはての島へ』が扱っているのは、それを生き、通過することが不可能な問題である。わたしは、この主題こそ、若い読者に最もふさわしいものではないかと思った。というのも、次のように言うことも可能ではあるからだ。ひとりの子供が、死の存在にではなく------子供は死そのものについては強く意識しているものだ------自分が(彼/彼女が)個人として死すべき存在であり、いずれは死ぬであろうことを認識した時こそ、幼年期の終わりであり、新しい人生が始まるときなのだ、と。今一度、成熟の年代だが、ここではより広範な状況コンテクストにおけるものである。


3 夢は自らを語る (49〜50P)

 映画にするなら、『さいはての島へ』が「最も映像化しやすい」ってのは確かなんだろうなあ。
 しかし、日誌読んでる限りなんかズレてるよなあ。


 まあ、ル=グウィン自身も他で「物語すべてに寓意や暗喩を当てはめてようとするのは意味が無い」と書いているし、でももうちょっと、なんつーか。


 これが「宮崎駿の引退作として『さいはての島へ』を映画化する」、ってんなら納得できたのかしら。

 ひとりの映画監督が、死の存在にではなく自分が(彼が)個人として死すべき存在であり、いずれは死ぬであろうことを認識した時こそ、幼年期の終わりであり、新しい人生が始まるときなのだ、と。

 とかね。


 映画として出来て来るものがどれだけのものかは分からないし、(内容がどうあれ)ヒットするのは間違いないのだろうけど。


 まあ、こんなことを考えて書いている時点で上手いこと乗せられてるってことかもしれないですしね。




# あ、夜の言葉って岩波版も既に品切重版未定なのか。うーん、それは駄目すぎですよ。



*1:宮崎駿の長男

*2:シリアスのつもりで作者が書いたものをギャグとして読む、とかね

*3:岩波書店同時代ライブラリー版 ISBN:4002601110