情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明


漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

「ゲド戦記外伝」と「歴史認識の欠如」の話

実在しない歴史をさぐるには、物語っていって、何が起こるか、見きわめるしかない。
これは、いわゆる現実の世界の歴史家がすることと、たいしてちがわないのではないかと思う。
何かある歴史的な出来事に立ち会っていても、それを物語として語ることができるようになるまでは、私たちはそれを把握することはもちろん、記憶することすら、できないのではあるまいか。
私たち自身の経験の外に有る時や場所での出来事は、ほかの人が伝えてくれる話に頼るしかない。
過去の出来事は、結局は想像力の一つの形態である記憶のなかにしか存在しない。
出来事は生々しく「現在いま」なのだが、いったん「その時」のことを語ることになっても、なお現実感覚が保てるかどうかはもっぱらこちらに、つまり私たちの力と対象への誠実さに、かかっている。
もし出来事が記憶からぬけ落ちてしまったら、そのかすかなおもかげを多少にして物語をして語らせしめ、こちらが意味したいように意味を持たせたら、過去はリアリティを失い、にせものになってしまう。
神話と歴史のごちゃまぜになったかばんに過去を入れて、時をくぐりぬけて運んでくるのはたいへんな仕事である。
だが、老子も言っているように、知恵ある人びとは思い荷車を従えて旅をする。


ゲド戦記外伝 まえがきより。
*1


 ル=グウィンはもちろん作家としての立場、歴史を記す側としてこの文章を読者に向けて書いているわけです。
 で、つい最近似たニュアンスの文章を読んだ記憶があったなあ、と。

おそらく大塚はあの世代だと他に同じような「歴史」が書ける人間はいないだろうと踏んだ上での、意地の悪い挑発だったのではないか。

単なる自分史を書いても、人はその歴史を面白がってくれない。面白がってもらうためには「史観」が必要だ。司馬遼太郎の娯楽小説がいつのまにか「歴史」になってしまったように。

また、客観性を…と考えて、年表にしても、何も知らない人がそこから流れを読み取ることは難しい。歴史に流れや物語が追加されないと「歴史」として認識されないのだ。


ARTIFACT@ハテナ系 オタクの歴史認識にリセットがあったと考えてみる  より
*2


 両者に共通するのは編纂者というか、物語として紡ぐ者が居ない限り歴史が「歴史」にならないのではないか、ということです。
 問題は、その語り手によって元々は同じ(であったはずの)ものが如何様にも変質しうる、ということなのかなあと。
 また、語り手が一人しか居ない場合は、それは「物語」と「事実」であることを両方同時に持つことになる可能性がある、と。*3


 より多数の人が同じ出来事や人の「歴史」を書くことで「事実」に近づくのか、それともそこからもっと逸れて行くのか、というのも良く分からないことではあるのですが。
 たとえば、手塚治虫はどこにいる@夏目房之介における「手塚治虫」と、まんが道@藤子不二雄Aにおける「手塚治虫」は、同じではあるけど違うものでもあるわけで。


 フィクションではない現実の「事件」や「歴史」を語るのならばマスコミ・記者クラブの「公式発表」だけの世界よりは、Blogなどでの勝手な、複数の語り手たちが紡いでいく「歴史」の方が改竄や嘘から遠いものになるとは思うのですが、そこに「物語」への変換がある以上「事実」と「歴史」の間にはギャップが必ず存在するのかもしれません。
 

 あとは、読者側がその「物語」を読むかどうか、ということかも知れませんが。
 もしくは、その「物語」を読んだ側がどの程度信じるかどうかですか。


 語られたあとは、そこにフィードバックを発生させるもただ受け入れるも、読み手・聴き手次第となるのでしょうか。
 



#ここで疑問が一つ。じゃあ、超護流符伝ハルカに「この物語はフィクションです」ってわざわざ書く必要あるんだろうか?

*1:下線はsoorceが追加

*2:下線はsoorceが追加

*3:もちろん、それがフィクションの話なら何も問題はありません