情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

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漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

団地と路面電車の話(1950年代〜現在)



 1950年代、住宅需要の増加により、各地に団地が作られることになった。
 山林を造成し、海を埋め立て、これまで人が住んでいなかった場所に集合住宅を建設したのだ。
 その際、問題となるのは交通手段であった。まだ一般市民がマイカーを持てるような時代にあらず、さらにいえば道路事情から言っても通勤に自動車を使うのは現実的ではなかった。
 団地から都市部への移動には、国鉄、私鉄路線を使用することが想定されたが、新たに創設される団地から、それらの路線まで出る手段をどうするべきかという課題が持ち上がったのである。


 当時、都心部では都電・路面電車を縮小・廃止する動きがあった。
 戦時中に破壊された地域の再建時に路線を引かない場合もあれば、戦後再建された都電もトラックなどによる流通網の邪魔になるとされて廃止された場合もある。


 これに目を付けたのが住宅供給公社である。
 使用されなくなる車両、線路、そして運転手・車掌・駅員・整備員などの人員を引き受け、団地造成時に路面電車を導入したのだ。
 街ごと新規に作るのだから路線・道路計画も容易く、かつての東京市中心部の様に自動車・路面電車が混在する状況ではなく、整然とした電車・自動車・歩行者分離型の構造が作られた。
 また、運行距離に基づく複雑な運賃形態ではなく、NY地下鉄の様な均一料金である、トークンシステムを使用することにより、利用客も運営側も負荷の少ない運用を実現した。


 これらの路面電車は団地ごとに路線名がつけられていたが、総合的には「団地路電」と呼ばれるようになった。


 団地と国鉄・私立路線を結ぶかつての都電車両は、通勤・通学時間帯には都心部への客に利用され、収益も順調であった。
 また、計画に沿って設置された団地内商店街「ショッピングセンター」までの買い物客などにも利用され、生活になくてはならない、団地住民の足となっていった。


 その後も、都心部では次々に都電路線が廃線・整理されてゆくが、その線路や車両などは「団地路電」に吸収されてゆき、路面電車も東京圏の人口と共にドーナツ化して広がっていった。


 しかし、その繁栄も一時的なものだった。
 マイカーの普及、地下鉄路線の拡張、国鉄(JR)の路線延伸、バス運行の大幅増強などにより、徐々に需要が減少し、1990年代までに大半の路線が廃線となった。
 環境保護の観点から、排気ガスを出さない路面電車の保持を望む声もあったが、利益的に存続が許されない場合が殆どであった。
 線路跡は自動車道路の拡張に使用されたり、駐車場への転用をされた場合もあれば、現在も緑道として残されている場合もある。


 関東地方の「団地路電」は、現在千葉県内に1路線、埼玉県内に1路線の2路線を残すのみとなっている。
 どの路線でもICカードが導入されているのだが、今もなお創業当時と同じトークンでも乗れる独自システムである。


 手元に眠っているトークンがあったなら、一度、乗りに出かけてみるのもいいかもしれない。
 「団地路電」がなくならないうちに。





 都電跡を歩く――東京の歴史が見えてくる(祥伝社新書322) 都電系統案内―ありし日の全41系統 (RM library (22))



 (この文章はフィクションです。実在の団地や路面電車とは関係ありません。)