今日発売の近代麻雀に掲載されていた、アカギを読んでて思い出したというか引っ掛かったんで探し出してきた。
季刊「藝能東西」一九七六年四月花吹雪号に掲載されたエッセイ、「麻雀はイメージ戦争」阿佐田哲也(色川武大)に書かれていたこと。
全部で4Pのショートエッセイですが、下記のは部分抜粋なので、気になった方は原典*1を参照することをお薦め致します。
まずいえることは、麻雀はイメージ戦争であるということである。
お互いの手牌は最終的に和了!という声で牌を倒し、相手の視線にさらしたときにはじめて実体がわかる。
それまではお互いに推察しあって対応しているのである。
お互いの頭の中にあるのは相手の実体ではなくイメージである。相手が抱いてるイメージと同じことをやってはいけない。
では、まず相手が自分に対してどんなイメージを抱いているか知る必要がある。
一歩進めていえば、相手に自由なイメージを持たせないために、こちらから特定のイメージを売りつけるのである。
思い込み、そんなはずは、しかしそれが。
ワシズさまのやったことと、今号で描かれた砂の中の、というのが通じるものがあるんじゃあないですかね。
下の文章はまた少し別の話も混じるのですが、武術とかの師匠が弟子を取るとき、最初に徹底的に痛めつけて上下関係を植えつける、なんて話も思い出しますね。
麻雀は一度、強いぞ、と思われたら七分方有利である。
この点は芸能と似ていて相手をまきこむことが必要なのだ。
強い者には相手が受身になってくれる。弱いと思われると、誰も警戒の眼を向けてくれない。
無警戒の方が有利に思えるが、そうではないのである。
これはスポーツやなんかでもそうなんですけど、一度決められた順列を覆すって、すげーエネルギーが要るんですよね。
鷲頭に勝ったアカギが天たちの前に現れるまでって、代打ちとして魅せる麻雀をしつつ「格が違う」「無敵」とか言われ続けてた筈なんだよなあと考えると、勝てる奴が出ないのも当然だったのかも。
*1:そう珍しい本でもないはずだし