情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

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漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

高森真士(真樹日佐夫)の「小説あしたのジョー」(1980年)と、そこに寄せられた梶原一騎・ちばてつやのコメントなど



 真樹日佐夫が亡くなりました。


 劇画原作者、小説化、空手家、格闘プロデューサー、と様々な肩書きと実績を持った偉大であり、しかし、一癖も二癖もあった人物でした。


 兄であった梶原一輝の作品との関わりも色々とありまして、共作もあれば、続編を書いた場合もあり、また、交友関係においても相互的な影響と反映があったという話です。
 あしたのジョーの続編というかその後的なものの構想がある、みたいな話をしてた事もあったそうなんですが、それも無くなっちゃいましたね。


 その数多くの作品のなかでも中でも、かなり特異なポジションに存在するのがこれ。
 ヘラルド出版から1980年に発行された「小説 あしたのジョー」です。


 
 小説・あしたのジョー (1980年)


 上の「小説 あしたのジョー」は、全部で3冊出版されたうちの最初の1冊。
 ジョーVS力石戦までが書かれています。*1


 漫画のTVアニメ化の劇場版アニメ化時のノベライズ、という立ち位置としてなんだか判り難いもの。
 その上、原作者の弟による執筆なのですが、「脚色」という小説としては異例のクレジット。
 



 挿絵も、アニメからのキャプチャー*2と、原作漫画からのイラストを使用したものが混在している、という、なんだか鵺のようなよくわからない代物です。
  
 
 



 そこに寄せられた原作・作画コンビによるコメントも、どうもちぐはぐであり、しかし、興味深いものでした。




小説「あしたのジョー」によせて
                  梶原一騎


 いつか私は芥川賞作家の村上龍氏から言われたことを覚えている。
「小説で“あしたのジョー”を書いたら凄いでしょうけど、よほどの筆力がないと表現できないだろうな、あの迫力は」
 その小説「あしたのジョー」が映画化とともに実現の運びとなり、しかも筆者は私の実弟の高森真士である。彼は真樹日佐夫の名で劇画原作もやり、また、本名の高森真士としては“オール読物新人杯”を獲得している。さらには極真カラテの本部師範代(五段)もつとめる文武両道の男で、カラテとボクシングの差こそあれ格闘技の世界のプロであるから、うってつけのジョーの書き手であろう。
 彼はまたジョーの連載中、じつに熱心な愛読者でもあった。かならずや精魂を傾けて、劇画、テレビ、映画のジョーを小説にもいきいきと甦らせてくれるものと私は楽しみでならない。


 この文章を書いている時点で読んでいない事はあきらかなのですが、実弟に対してとはいえなんだか不思議な褒め方。


「私とジョー
        ちばてつや


 力石との試合中、ジョーが段平に『ありがとう』と言う場面があります。そんな言葉を言うはずのないジョーが、ふっともらす。ジョーの表面にはない心の奥底に潜むやさしさ―。そのシーンは今でも印象強く思い出され、そんなジョーの一面がとても好きでした。
 それから当時、気がついた事ですが、自分の体調がすぐそのまま登場人物の体調にのり移るという事がわかり、驚いた記憶があります。思えば、つまり私の体調の良い時期には彼もはつらつと活気を帯び活躍するのですが、逆にうっかり体をこわしたりすると、ジョーも心なしか目に力がなくなり、歩く姿さえ元気がなくなるのです。力石の死後、目標を失って魂の抜殻となったジョーが、その迷いから吹っ切れて雨の中を力いっぱい走る時、私は病という最悪の状態から回復した時だった事もありました。
 皆からこれほどまでに愛されているジョーを、なんとかして立ち直らせなければならないと、この作品一本だけにしばった時期を、今はなつかしく思い出しています。


 こちらは、漫画の中でのキャラクターのあり方を示す文章としてはとても興味深く面白いのですが、ノベライズと関係あるのか、と言われるとなんか微妙、というか、どういう依頼の仕方したんですかね、とも。



 原作の二人からすれば7年前の作品。
 しかし、アニメとしては2が作られた所、小説としては新作、と時間軸のズレってのもこういうコメントに繋がったんじゃあないのかなあ、と。



「ノベライズ」って結構難しいんだよなあ、という話

 小説化はノベライズ、漫画化はコミカライズ。
 アニメ化は・・・なんて言うんでしょう。アニメーショナイズ?


 まあいいか。元が、実写映画・ドラマだったり、アニメだったり、漫画だったり、ゲームだったり、とノベライズにも色々ありますが、オリジナルの話をやるスピンアウト的なのと、あらすじの小説化みたいので極端というか、意味わからんのも結構あるじゃあないですか。
 今、自分の手元に、ジョーン・ヴィンジによる「レディ・ホーク」のノベライズ版があるけど、微妙というか、なんだろうこれって感じしか残らない。


 漫画関連のが日本で何時頃から出始めたのか、という話だと、秋本文庫での「包丁人味平」、コバルト文庫での「宇宙戦艦ヤマト」なんてな例もあるし、1970年代ってことになるんでしょう。
 どこまでがどっちから、ってのは曖昧な場合もあって、「機動戦士ガンダム」の小説版なんかはTV・劇場アニメとは結末が違ってるのですが、あれは「原作」でも「ノベライズ」でもない特殊な立ち位置。


 現在でも、ライトノベルからのアニメ化・コミカライズ、漫画からのアニメ化・ノベライズなんかの総合メディアミックスみたいのは多いですね。


 ただ、各メディアでの出版数とか発行数とかよくわかんないけど、ノベライズは中でも一番部数貢献比率少ないんじゃあなかろうか。
 いや、なんつーか、小説をアニメや漫画にした場合のと、アニメや漫画を小説にした場合のメディアミックス全体への貢献比率とかそんな話で、ノベライズされたものってオリジナルに対してそんな売れないっていう結果になってそうな感じがするというか。


 この辺、高橋陽一先生が「サッカー少女楓」刊行時に、小説1冊だと、週刊漫画連載で2年分になる、みたいなことおっしゃってたんですけど、劇場版アニメ2時間を小説1冊にすると密度低く感じるけど、小説1冊を劇場版にすると尺足りなく感じる、みたいな事もあるわけで。
 いや、もちろんそれは作品による差があるんだけど、うーん。


 表現ジャンルの問題ではあるのですが、絵や映像で表現されたものを文章にすると圧縮が効き過ぎるのが逆に弱点になるというか。
 挿絵を多く入れたら、小説にする意味が薄れるし。


 難しいところです。


 といった所で今回はここまで。


*1:残り2冊は見た事もないです。さらに、3冊目は国会図書館にすら無い

*2:当時はそういう言葉は無かったろうけど