「○○好き」ってのは、例えばSF好き、漫画好き、ラーメン好き、酒好き、おしゃべり好き、カラオケ好き、なんでもいいや。
これから先、もっと色々と・また今までとは別の面白い作品を読みたい、美味しいのを喰いたい呑みたい、楽しくしゃべりたい、歌いたい。
そういうことを現在において思ってる、考えているからこそ「○○好き」って自称したりプロフィールに書いたりするわけじゃないですか。
それは、「今から」かもしれないし「これからも」かもしれない。どっちにしても未来なんですよ、見てるのは。
今までどうだったか、というのはそういう感情の発露に対しては些事にすぎないんじゃないか。
過去は大体でいいの。もっといえばどうでもいい。
逆に、過去に情熱を打ち込んできて、物凄い愛情と時間と労力を注いだものがあったとしても、ある時もう充分だな、と思ってそれを離れていったり、関心を失ったりってこともあると思います。
部活でやってたスポーツとかね。もちろん、続ける人も居る。
その人はそれが好きだから、そこから未来においても続けるって選択をしてるわけですよ。
そういう意味では、「好き」の反対は「嫌い」じゃなくて「無関心」だとも考えてます。
関心を持った時、「あ、これ面白いんじゃないの」って思ったときにはもう「好き」になっちゃってるんじゃあないのかとも。
スポーツを自分ではやらないにしても見続ける場合は「無関心」じゃないから、「好き」の方向が少し変わってるだけかもしれません。
今はだいたいそんな感じの考えなので、○○は読んでてしかるべき、とか、ミステリ好きを標榜するなら1000冊は読んでないと、とかいう意見にはそれって何か違うんじゃないの、と異論を唱えることが多いです。
義務じゃないんだよ。趣味なんだよ。
でまあ、自分は「漫画好き」だと思ってるので、こっからは漫画に関してを中心に。
もっと言えば、それに対する姿勢や思いが「深い」だの「重い」だのって事さえも重要ではない。
ちょっとした楽しみの伴う時間つぶしだっていい。「軽い」ものであっても、それに好意と歓びを伴うのならば「好き」って言って良いと思う。
なので、漫画や小説の読み方で「読み込まなきゃ意味が無い」とか「読む側にも責任と矜持が必要」ってのはよくわかんない。
もっと素直に楽しんだって良いんじゃないの。きぬたー!とかなんやてー!とか。
皆がみんなそうしなくったっていいじゃないの。わかったそれは任せた。がんばれ、お前がナンバーワンだ。
何で電車の網棚に漫画雑誌が捨てられてるのか、って考えてみようよ。
音楽だって漫画だって、「鑑賞」するかどうかはそれぞれの読者が勝手に決めればいいことですよ。
ソムリエの人が、居酒屋でホッピー飲んでるオッサンに対して「お前は酒の飲み方がなってない!」って言ってもなんかなあ、としか思えん。
ワインだって、「ワインの飲み方ってのは〜」って講釈するのは勝手だけど、世界で消費されるワインの内8割*1は普通にテーブルワインとか日常用のものだって事を忘れられたらどうしようもない。
いいじゃん、高いワイン呑むときにに薀蓄傾けなくたってさ。
何も吟醸酒だけが日本酒じゃないよ。ワンカップだって捨てたもんじゃないよ。
ビアガーデンで飲む泡の潰れたビールだって美味しいって思って飲んで悪い事なんかない。
缶チューハイを飲むように、気楽に漫画を語るのだってアリでしょ。
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*1:だったと思う