ぼくはいわゆる「スポ根作家」なる称号をマスコミから与えられたごとく、主としてスポーツの分野を舞台にとって、まさに「ファイト」そのものをテーマとして描いてきた。『巨人の星』であり『あしたのジョー』である。
ではスポーツ物ではない最近作の『愛と誠』にはファイトは描かれていないか?
そう問われれば、どっこいちゃんと描いてあるのであって、要はファイトなるものの考えよう、解釈の方法なのだ。
「愛は平和ではない。
愛は戦いである――――」
と、作品の冒頭にあるように、何も野球で投げたり打ったり、ボクシングで血みどろになってなぐりあうだけが戦いではない。闘志にあらず。そもそも『愛と誠』は、この発想から生まれた。
静かで、ちっとも攻撃的ではなく、じっと耐えしのぶファイトもありうる。愛するという名の戦い、忍耐という名の戦い、あるいは人間本能の自己主張とは逆の自己犠牲という名の戦いは、その過酷さ、そのきびしさにおいて、いかなる強大な外敵との戦いにもおとりはしない。
いま『愛と誠』の早乙女愛は、この戦いを静かなる火花を散らして戦っている。けっして『巨人の星』の星飛雄馬にも、『あしたのジョー』の矢吹丈にも負けていない不屈のファイトをもって・・・・。
むしろ、ぼくは近ごろひしひし思うのだが、真のファイトとは静かなものではないか?
表面にギラギラギンに表されているうちはニセモノらしい。そういう飛雄馬もジョーも、物語が佳境にさしかかるにしたがい、ぎゃくに彼らの動きは、すみかえったように静まってきた。極度に回転するコマが、すみかえるように。
これ見よがしに煙をあげている火は、まだ猛火ではない。完全燃焼する炎は高熱だが静かだ。そのように、ぼくは早乙女愛に大賀誠を愛させてみたい、と『愛と誠』を構想した。
だから、役名そのままを芸名にした映画の早乙女愛クン、またテレビで演ずる池上季美子クンらに、
「愛の役づくりの秘訣を教えてください」
と、質問されるつど、以上のべたとおりのことを、ぼくは答えてあげた。
「自分を完全燃焼している静かな炎だと思いたまえ。その炎が早乙女愛だよ」
そして、それはまた、ぼく自身が長年の作品活動をつうじてさぐってきた、さまざまのファイトのかたちの移り変わりであり、ようやくとらえた真理でもあるようだ。
梶原一騎の仕事は男性・少年向けが多く、女性・少女向けというのはほんの少ししか存在しません。
その中でも、女子中高生向け雑誌「女学生の友(Jotomo)」に掲載されたこのエッセイはかなり珍しい部類に入るかもしれません。
女学生の友は1950年に創刊され、1977年に休刊。「プチセブン」に変った雑誌。
その中で1973年から連載されていたのがこの「青春論ノート」というコーナーで、毎回1つのテーマがあり、それについて4〜5人の各界著名人がエッセイを寄せるというものでした*1。この号のテーマは「努力」ということで、丁度連載中かつこの年の7月に映画が公開され、さらにはTVドラマ
が放映中であった「愛と誠」とからめて語っています。
途中からなんだか違う話になっちゃってるのはご愛嬌。でも、
真のファイトとは静かなものではないか?
これ見よがしに煙をあげている火は、まだ猛火ではない。完全燃焼する炎は高熱だが静かだ。
という指摘にはドキっとさせられます。
簡単なことで軽々しく騒いではいないだろうか、(本当に戦うべきでもない時に)ムダに熱くなったフリをして行動しては居ないだろうか、と。
「愛と誠」、読んだことが無い方は是非一読することをお薦めいたします。
漫画喫茶でも品揃えがそれなりの所ならあるんじゃないのかな。
![]() | 愛と誠 (1) (講談社漫画文庫) 梶原 一騎 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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