SFとはメカじゃないエイリアンでもない。結論はただひとつきれいなセミ・ヌードのねーちゃんである!
掲載はスターログ日本版1980年11月号。「SF枕草子(女流作家エッセイ・シリーズ改題)4」として見開き2ページ。
以下、テキスト起こし。
- 自我の確立にはたしたSFの役割
いつの頃からか私は臆病者である。子供の時分は暗闇なんかなんのその、怪談好きの鈍感者であった。それが何故、今はこのように臆病なのだろう。第一、なにが怖いのだろうと考える。と、思いあたるフシがいくつか出てくる。臆病風の吹き起こしは自我の確立と関係しているのだ。
自我の確立は遅かった方だと思う。高校にはいってやっとプライドに目覚めはじめたのだから。(SFとどういう関係があるのかとお思いでしょうが、結構あるんですよ。ないかな?)プライドはともかくとして、つまり高校生になってようやく、本を読んだらそれを咀嚼し、自分なりの考えを述べたり、もしくはそれを消化(未消化だったかもしれないけど)して文章・・・小説のまねごとみたいなものを書いてみたりするようになったわけで、つまり露骨な自己表現を試みるようになったのだ。その自我の確立に関連した書物こそがSFなのだ。・・・といっても、ハードな本格SFファンの人達が聞いたら胸ぐらをつかまれそうなほど読書量少ないけれど、外国物をいっさい読んでない、とだけいえば私の知識量の少なさも察しがつくと思う。*1それにしても、自我が確立された過程で触れた日本のSFは私にとってどれだけ偉大であったか・・・。多くは日常の中の不条理、つまり横丁から妙なものが、押入れから変なものが、タンスの中からいやな音が、といったように、一億総被害者という感覚が前面に出ている。日常の不条理に関わる人々は、特殊な能力を持ったヒーローではない。モブの中の一人にすぎないのである。すなわち私だって、あなただって異常事態に直面しないと誰が言えよう。と、こんな小説群が私の真っ白な脳(早い話が何も知らなかった脳ですが)、ナイーブな五臓六腑(どういう内臓じゃ)にしみじみとしみわたって、かくして私の感性が独立の第一歩を踏み出した。
でも、最初は怖くなかった。笑った笑った。あの時私は恐怖したのだ。高校二年であった。文化祭の催しをクラスごとに別れてやることとなったが、うちの組ではテーマが「オカルト」もしくは「ESP」もしくは「SF」。これらをひっくるめてやっていたと思う。何故「思う」かというと、遠い昔のことなので自分が本当に執行委員の友人として参加していたか忘れているのだ。それはともかく、クラスの主立った者が放課後屋上に集って例の「ベントラベントラ・スペースピープル」*2をやったのである。なにもおこらなかった。ただ私の内部ではちょっとしたパニックがおこっていた。(本当に来たらどうするのだ)(さらわれて殺されても文句は言えない状態だ)(これでは知らない外国人の家に無差別に電話をかけて、お前は誰だ!と日本語で聞くようなものだ)(なんという無計画)(第一我々はUFOを呼んだあとのことを全然考えていない)(出前は頼んだが金は払わない)(来るな来るな。もう悪いことはしません)
ざっとこんなものである。一般の女子高生が座興でUFOを呼ぼうったって来るわけないのにこれだけ恐怖した私のほうがよっぽどえすえふなのかもしれないけれど。さらに、霊を呼び出そうとも試みたけれど、精神状態はUFOの時とほぼ同じ過程をたどるので割愛する。
なぜこんなに怖がったか。それは自分から得体の知れぬものに関わろうとすることが、ひどく無鉄砲に思えたせいであろう。私はスーパー・ヒロインではない。強大な科学力を持つインベーダーや怨念にこりかたまって成仏できない霊の皆様と互角にわたりあえるような能力は何一つ持っていないのだ。私は凡人、私はモブ。
モブのたどる末路は悲惨である。パニックが起こったとき、我々モブの役割は悲鳴をあげて逃げ回ること、そして、ひとまとめに死ぬのである。ああ、いやだ。まあ、驚いたり主役に手をふったりするくらいの気楽な役割ならモブもまた楽しいかもしれないけど。
- SF的な死に方だけはぜひ避けたい
私を支配するSF的感覚は・・・根底は恐怖である。バチがあたる、というきわめて原始的な恐怖である。夜空にエイリアン、河原に霊魂、地上の闇に狂暴な人々。こわいものはいっぱいある。そういえば高校時代フと思った。朝に幽霊を見たらミもフタもないと・・・。夜はまだいい。朝を待てば幽霊は消えてくれるだろうという希望があるから。でも、もしもすでに朝だったら、私はなにを待てばいいのか。ああこわい。
突然話題を変えてみる。自分の漫画を見ると恐怖ものではない。早い話が笑い話であるが、そこには私のいじましい、つつましい願望が露骨にかくされている・・・おかしな表現だけど、本当にそうなのだから仕方ない。自分が超人だったら・・・。こんなにハッキリものが言えたら・・・。果てはこのくらい体がスマートであれば・・・。すべて現実の裏返しである。と言うことは恐怖が裏返ってギャグになるのも当然のことのように思える。と、自分で納得してみたりする。とにかく超人願望、誰もが夢見るスーパー・ヒーロー。どんな危険なめにあっても絶対死なない。破壊の限りをつくしても正義の味方としてもてはやされ、顔がよくてスタイルが良くて賢い若者・・・目がしらが熱くなる。なんにせよ、「死なない」この一点に尽きる。誰だって死なせたくはない。準主役級なら、せめて人生最後にして最大のドラマ「死」をカッコよく死ぬとかそんなことを思うかも。モブは違う。モブの私としては楽に逝きたい。あったかい毛布の中で極楽往生したい。もしかすると・・・もしかしなくても、主役も準主役も同じことを考えてたりして。でもそれじゃお話にならない。
ここまできても自分が何を言いたいのか、よくわからない。読んでくださってる方々さぞやご迷惑でしょうが、もう少しの辛抱です。もうすぐ終わりますから。
つまり、UFO、霊魂、乱暴者、妖怪との遭遇との恐怖というのがどこに集約されるかというと、行きつくところは「死」である。だいたい人生のゴールが「死」である以上これは確かな事実である。「死」は万物に公平におとずれるわけで、これは日常的な出来事と解釈する。結局、問題はその「死」に至るまでの過程が自然か不自然か・・・つまりSF的な死に方は避けたいと思う今日この頃である。さっきから死ぬ死ぬと辛気くさいことを書いているが、現在の私の精神状態が腐敗混濁しているのでご容赦願いたい。
- 理解できないものはすべてSFである
そろそろ真剣にSFについて書く。自分の中でSFがどのように解釈構成されているか。端的に言うと理解しがたいものはすべてSFである。だから数学や物理や英語は私のSFである。まるでアホであろう。そう思う。でも、これではあんまりなので視覚的な方面からせめてみよう。宇宙じゃない。メカじゃない。エイリアンでもない。結論はただのひとつ。きれいなねーちゃんである。しかもそのねーちゃんはセミ・ヌードでなければいけない。荒漠とした惑星の原野に肌もあらわに立つねーちゃんは現実では理解しがたい実に不条理な存在であるが、それが自然な世界、これがSFでなくてなにがSFなものか。これは私の「恐怖感覚」と双璧をなす「愛」の部分。私のSFはこの二大歯車が私の日常を軸としてつつましく展開している、せこい自己表現なのだ。
もう少しSFのヒロインについて。あくまでセミ・ヌードのヒロインについて。彼女らは日常的でない。少なくとも私のようなモブの地球人にとって、特異な存在である。何故というにバンピレラ*3がテレビの相撲放送見ながら茶をすすってたら異常でしょう。*4なのに私が同じことをしていると、それは私のあるべき姿である。逆に私がバンピレラの扮装*5で活躍したら行き遭う宇宙人、みんな顔をそむけるだろうなというわが身がいとおしい。美人はうらやましい。*6で、こんな非日常な彼女たちは我我の日常における不条理に出会っても、ただ騒ぐだけじゃなくて、自力で克服するなり、非日常的な男性が助けに来るなりするわけで・・・もっとも美人ならただ騒いでいるだけで絵になるからいいか。はて何が言いたかったのか?このままでは「美人はいいな、うらやましいな」という結論しか出てこない。しかしSFであろーがなかろーが美人はいいな。うらやましいな。
自分がヒロインでないことは知っている。容姿・年齢*7・能力・根性、どれもが私はヒロインの資格がない、ドロップアウトじゃと口々にさけんでいる。だからSFのヒロインになれないし、なろうとも思わない。ただひとつ計画していることがある。SFとまではいかなくともパニック状態の中で、それも世界的パニック状態の中でモブの私に悲惨な死が訪れたとする。私は死の瞬間に念を統一して、気に入ったサバイバルの背後霊になるのである。例の顔よく頭よくスタイルよく、最後までしぶとく生き残りそうな主役タイプの人間にくっついて、その人の人生を面白おかしく見てくらすのだ。きっとSFマンガを読んでいるような波瀾万丈の死後を生きられると思うからである。がんばれオメガマン。がんばれ私の霊魂。
週刊少年サンデーにうる星やつら、ビッグコミックスピリッツ*8にめぞん一刻を連載していた頃のものです。
段落区切りなどは基本的にそのまま。一段落が長いですがそこらへんはご勘弁の程。
載った雑誌とテーマから、見出しなどはSFにメインスポットが当てられていますが、ここで明かされている中でより興味深いのは高橋留美子の恐怖感覚(死生観)なのではないでしょうか。
特に、その対象として挙げられている「UFO、霊魂、乱暴者、妖怪」の4つ。
この時とその後の連載作品で言いますと、うる星やつらでは宇宙人(UFO)、らんま1/2では幽霊*9、犬夜叉では妖怪、乱暴者はそういう属性とは別の現実の暴力的な諸々、ボクシングとか。
週刊少年サンデー掲載作品についてこの言から考えると、うる星やつらやらんま1/2では作者自身が「自分の漫画を見ると恐怖ものではない。早い話が笑い話であるが」と書いている様に恐怖を転換し笑いへと裏返していたが、コメディ主体ではなくなった犬夜叉での妖怪は、そのまま「モブ」たちからは恐怖の対象であり、主役一行における冥加爺、影の主役とも言うべき殺生丸一行における邪見なんかは、この「サバイバルの背後霊」の具現化ともいえるかもしれません。
高橋留美子は非常にバラエティーに富んだ多くの短編を描いているのですが、その中でも「得体の知れぬもの」が多く描かれています。
専務の犬の犬然り、Pの食卓のペンギン然り、お礼にかえての奥様連然り。ただ、それらは「恐怖」や「笑い」は違うベクトルでの「得体の知れぬもの」*10でしょう。
理解を超えるもの、自らの理解の範疇に無いものがSFであるならば、それらの作品はすべてSFなのかもしれませんね。
赤い花束―高橋留美子傑作集
高橋 留美子
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また、「なんにせよ、「死なない」この一点に尽きる。誰だって死なせたくはない。」というのは非常に興味深い一文です。
うる星やつら、めぞん一刻、らんま1/2などでは主要キャラクターのみならずモブキャラすら死なない。
それが、人魚シリーズ や犬夜叉では、(主役級は死なないのだけれども)モブキャラはどんどん死んでいく。
物語の方向が違うといえばそれまでですが、やはりそこに至る過程に何か変化を感じることが出来そうな気もします。
といったところで今回はここまで。
#高橋留美子については熱心に研究をされてるファンも多くいらっしゃるので、そういう方からすると自明かつ説明がつく事なのかも・・・。どうなんでしょう。
*1:soorce註:年代からすると、筒井康隆・星新一・小松左京に光瀬龍らへんでしょうか?
*2:soorce註:ジョージ・ヴァン・タッセルと宇宙友好協会ネタですね
*3:soorce註:こんなん>
*4:soorce註:最後の方ではラムもテンちゃんもそうなってはいたが・・・
*5:soorce註:「コスプレで」とは言わないのですな
*6:soorce註:でも高橋留美子といえば美人巨乳漫画家で知られてたりするわけですが
*7:soorce註:でもこの時は22〜23歳ですよ?
*8:創刊直後で月刊、この半年後くらいから隔週
*9:「呪いの泉」はすべてそこで溺れたものの霊魂による祟りだ
*10:ですが、作品の終わりには明かされることもある、得体が知れることによりその対象から外れるものかも