情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明


漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

「炎上」あるいは「ネットイナゴ」もしくは「突発的群集」の発生に関わる四つの要因。


 基本的には全て、ラリイ・ニーヴンの1971年の短編「フラッシュ・クラウド*1に書かれていることです。以下、引用はすべてこの本より。
 この小説はインターネット用語になっているフラッシュ・クラウド(Flash Crowd)*2の語源で、以下の内容も特に目新しいことではありません。


 この記事は、小倉秀夫弁護士*3のBlog la_causette:http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/ などを読むに付け考えてた事を基に書き始めましたが、あんまり直近の記事とは関係ないようなものになってしまいました。
 小倉秀夫弁護士は「匿名の卑怯者」というフレーズを好んで多用し、実名でない全てのネットユーザーを卑怯と断定されている*4のですが、匿名だから悪を為す、という考え方には賛同できません。実名だから悪を為さない、というのに賛同しないのと同等に。




 ちなみに、突発的群集フラッシュ・クラウドとは、何らかの要因であるサイトやURLにアクセスが急増する現象の事。
 ITに詳しい弁護士さんがこの程度の用語と意味するところをご存じないなんてことがあるとは思ってなかったので、とぼけてらっしゃるのかと思ってたんですが、残念ながらそうでは無い様なので少し解説付き。

  • 報道録画員ニューステーパー」というのは報道会社などと契約して街を飛びまわりニュースを探し廻って報道する個人。
  • 何らかのきっかけで何処かに多数の人々が集まるのが「突発的群集フラッシュ・クラウド
  • テレポーテーション装置は「転送ブース」と呼ばれています。


 また、この現象を「暴動」と表現する人も作中に登場しますが、その発生の仕方によってまったく破壊も混乱も伴わないパターンがあることから、呼び方は「群集」へとなっていきます。
 ただアクセスが集中するのを炎上とかコメントラッシュとか呼ばないように。


簡単なまとめ

 「炎上」あるいは「ネットイナゴ」もしくは「突発的群集」と呼ばれるような現象を支配する要因は、以下の四つです。

  1. 移動手段
  2. 集団の母数
  3. 報道
  4. 現場

 このうち、移動手段と集団の母数は、インターネットでは既に決定されて居て、個人や1企業がどうこうできるものではありません。
 パームリンクによる瞬間移動と、8億人以上(内、日本語を理解するのが8000万人以上)のパソコンや携帯電話を操作し、文字を読んだり聞いたりすることのできる人類の集団です。

くだけた言い方をすれば


 どこでもドアが実現し、誰でも持ってるような世界では、昨日まで知られていなかったストリートミュージシャンに大観衆が集まることもありえるし、アジテーターの所には観衆も拍手もブーイングも等しく殺到する可能性が存在します。
 石を投げたりいきなり殴りかかるようなヤツが10万人に一人しか居なくても、母集団が大きければその総数は増えます。
 しかし、大観衆が集まることとその場が荒れることは本質的に無関係で、それは匿名とか実名とかそういうレベルの話ではありません。


 って分かりやすくないですか。


ちょっと真面目にそれぞれの説明

  1. 移動手段

 「フラッシュ・クラウド」は瞬間移動装置が発明され全世界に普及したという設定。
 昔の電話ボックスのような形で、コインを入れてダイアルすればあっという間に瞬間移動。
 つまり、誰もがどこへでも簡単に・瞬時に行ける世界です。


 インターネットも、よほど大容量のデータ転送でなければ、パームリンクによる瞬間移動が可能な世界です。
 その事件・事象・記事が存在するのならば、距離も時間も関係有りません。
 ただ、リンクをクリックするだけでいいんです。誰でも簡単に・瞬時にそこに行けるんです。


 我々は既に「どこでもドア」を手に入れてるんです。


「暴動がこれでおしまいということはないでしょうね」


「暴動はふえています。観光旅行のようなものです。あなたがたの短距離用ブースのせいで、観光旅行は大幅に減りました。長距離ブースのせいで、それがすこしづつ復活しかけています。慢性の流動的暴動というものを信じられますか?群衆から群集へと渡り歩く暴徒です。硬貨を入れた財布を持って、略奪できるところで略奪を働く----」

    • ネットと現実世界の違い

 
 仮に、友好的なエイリアン宇宙船が降りて来る、なんて事件が起きた時、それがどこに着陸するかで集まる野次馬の数が全く変わるのが現実世界です。
 東京の新宿に降りた場合と、北海道の原野に降りた場合とで、集まる群集・野次馬の数は全く違ったものになるでしょう。
 インターネットが現実と違うということを認識していない人は、これと同じだと思っているかもしれません。


 しかし、ネット上には「地方」も「辺境」も「隅っこ」も存在しません。ただURLがあるだけです。
 誰でもどこでもドアを持っていて、特に制限をかけていない限りそこへいくことが可能なんです。


  1. 集団の母数


 母集団が大きければ大きいほど、事件・事象・記事に集まってくる可能性のある人数は増えます。
 全世界には8億人以上のインターネットユーザーがいて、内、日本語を理解できるユーザーは8000万人以上と推定されますので、延べではなくユニークで8000万ヒットというのも理論上は可能です。


 あるブログのある記事に、1000のコメントがついたと仮定しましょうか。そのコメントは多いのか少ないのか。
 結論から言えば、有りうる最大の数からすると非常に少ないです。


 (一人1回という制限があったとしても)それは日本語が理解できるインターネットユーザーの内8万人に一人がコメントをしたということに過ぎません。どっかの地方都市の全ての住人のうちたったの一人。
 20%は複数回書き込んだ人に拠るものだとすれば、僅かに800人。10万人に一人が実際にコメントを書き込んだにすぎず、残りの99.9999%は何もしていないわけですよ。


 仮に、某弁護士さんが「匿名の卑怯者」とか「粘着くん」と呼ぶような行為を行う人間が10万人に一人程度存在するとすれば、日本語理解できるネットユーザー全体では800人がそれに該当するのかもしれません。
 それは残り7千万人以上の匿名で活動しているネットユーザーとは無関係に存在しえます。
 もちろん、それは許されざる行為でしょう。しかし、その為に他のすべてのユーザーの匿名性を排除しろ、というのは余りに突飛な理論展開と思われるのですが。


「そう、どうやら騒動を好む人びとがいるらしいのです」
「それは馬鹿げたことのようです。暴動に巻き込まれることを誰が望むでしょうか」
「第一に、暴動と報道されているものをくい止めるべきもっと多数の警官。第2に、もっと多数のニューステーパー。第三に、世間に知られたいという人びと----」


「なんらかの主義主張を持つ人びと。公衆の耳目を引こうとする人びと。ここには報道員がいます!カメラがあります!世間の目があります!」


「さらに、自分で暴動を見たことのない人間がいます。そういう人びとがどっとやってきました。彼らが今暴動についてどう思っているかはまた別問題です
「これらの人間を全部合わせても、公衆の中で大きな割合にならないかもしれません。暴動を見物にくるほど阿呆な人間はどのくらいいるでしょうか?しかし、その割合はわずかでも、彼らは合衆国全体からもほかの土地からもいっせいにやってきたのです。彼らが到着するにつれて群集はますます増大して騒がしくなりました----略奪者たちにとっては、いっそう好都合になったのです」


「そして、略奪者たちも、四方八方からやってきました。現在では、3度の転送でどこからでも、どこへでも行けるからです」

「これは接近手段の問題です」


「かりに---そう、100万人のうちでわずか10人が、機会さえあれば商店を略奪するような人間だとしても、合衆国全体では4000人くらいになります。そして、その4000人全部が、21の数字をダイヤルするのに要する時間で、サンタ・モニカ・モール街へ到着できるのです」


 

    • 1000という数字が多いか少ないか


 そもそも、1000コメントが付く記事ってどのくらいPVがあるものなんでしょうかね。http://benli.cocolog-nifty.com/la_causette/2006/10/post_dfb6.html によると1万4000弱のPVで73コメントだそうですから、炎上してるときでも1コメント/200PVくらいでしょうか。
 そうだとしても、その記事に興味を引かれ、その記事のURLをクリックし、その中でもコメントを書き込むという行動を取った人は僅か200分の1にすぎないわけで。
 ああ、コメントした人はリロードとかするから実際の割合はもう少し上がるかもしれませんね。


 1000コメントが付くその記事単体でのページビューが延べ20万PVでも、見た人は15万人くらいってことになるのかしら。
 15万人の内、その記事にコメントを残すだけの手間をかける人が1000人も居てくれた、とも。
 

  1. 報道


 さて、母集団がいくら大きかったとしても、それが起こったこと自体を知らない人間がそのページを積極的に見に行ったりコメントしたりトラックバックしたり、ということは無いでしょう。
 現在のインターネットにおいては、その事件・事象・記事を他のユーザーに知らせることは違法でも不道徳な行為でもなんでもありません。
 それを為す個人が居るだけです。
 作中では、ある商店街でのささいな諍いをニューステーパーが報道したところ、それを他の局が全国に配信した結果、連鎖的にその事件を知る人が増え、その商店街へのアクセスが集中します。


 例としては、

 などによってその事件・事象・記事を知った人がさらにブックマークし、別の板にスレッドを立て、自分のサイトに書き、ということです。
 個人の行動の連鎖によって情報が拡散する速度がこれだけ広まった時代というのが過去には存在していなかったので、何と比較しても詮無いことではありますが、例えば天安門事件では当時普及し始めていたファクシミリによって現場への参加者が爆発的に増えたということもあった様ですね。


ジョージ・リンカーン・ベイリーは、この騒動を報道させるために一団の報道員を派遣しました。彼はまたその報道が届くにつれそれを編集しながら、ほとんど生で報道しました。その結果、合衆国のいたるところで、テレビを持っている者ならだれでも、1ダースほどの熟練したニューステーパーが録画する騒動を見ることができるようになりました」


「それから、すべてが突発したのです。モール街の人口は急激に増大し、群集はすべて物をこわしはじめました。なぜでしょう?」

    • 作中での政府関係者の行動ですが


 報道したものを罰しようとしたり、という描写があります。中国政府のやり方と近いですね。
 情報を伝えることを個人が行うのは僭越なのでしょうか。
 

  1. 現場


 単にPVカウンターが回る事を「炎上」や「ネットイナゴ」とは呼びません。
 コメント欄もトラックバックも解放してあるにもかかわらず、1日で1〜数万PVのアクセスがあったにもかかわらず、コメントの1つも付かない、トラックバックも数件、という記事は存在します。(実体験としてね)


 なにかコメントを書き込みたい、トラックバックを送りたいと思わせるような物事-それは「燃料」と呼ばれるものかもしれませんが-、そして、そこに集まってくる野次馬達が騒げる・見物できる場所が必須です。


 あるいは、建屋の存在しない火事というのはありませんし、海岸に人が集まっても略奪など起きることはありません。
 そこにコメント欄もトラックバックもなければ、野次馬はそこでは騒げないのですから、炎上とはなりえません。


 コメント欄やトラックバックの存在が炎上の原因とはなりえません。
 1度の更新で数万〜数十万ヒットを記録するブログやサイトは世の中にかなりの数存在します。記事単位ではさらに多いでしょう。
 それがすべて炎上し、ネットイナゴに襲われていますか?


 というか、コメントを書いてもらえるということは、何か閲覧者の琴線に触れることの出来る記事なのでしょう。
 それが正の感情であれ不の感情であれ、どこが自分と閲覧者の差なのか、そういうことを知るチャンスを与えてくれてるんですよ。
 記事を読んでいただけるだけでなく、記事や意見から向上・変化させられる可能性を得られるわけですよ。


 まあ、それが読むにも値しない罵倒しか付かないというのならば、何故そうなるのか考えてみれば良いんじゃないんですか。
 虚偽の情報や犯罪になるようなことならば、相応の対処をするのも考えられますが、自分と意見が違うのは全て罵倒だとしか読めなければ、まあ、聞く意味もないのでしょうけど。
 目と耳を閉じて歌い続けることは可能なんですから。
 




「テープ雑誌スターのゴードン・ルントを知ってるだろう?彼は<ツナイト・ショー>にでていて、たまたまハーモウサ・ビーチの赤潮の話をした。彼はそれをきれいだといった。つぎに何が起きたかといえば、国中の男や女・子供がハーモウサ・ビーチの赤潮を見たいと思ったことなんだ」


「どの程度のひどさなんです!」


「わたしが最後に聞いたところでは、怪我人は一人もでていない。群集は物をこわしてもいない。どのみち、砂以外に盗むものはないからね。陽気な暴動だよ、ジャンセン。べらぼうに人がでているだけさ」


「また突発的群集フラッシュ・クラウドですね。どうもそうらしい」ジェリベリーが言った。


「転送ブースがあるところでは、どこでも突発的群集フラッシュ・クラウドが現れる可能性があります」


あとになって、彼は砂浜の色を思い出せなかった。砂が、あまり見えなかったのだ。

どの人間にも、変化と静止のあいだには最適の比例がある。変化がすくなすぎると、退屈する。静止がすくなすぎると、恐慌を起こして適応能力を失う。
10年のあいだに6回も結婚した者は、職を変えないだろう。会社の勤めのためにしょっちゅう引っ越すものは、安定した結婚を続けるだろう。一つの家庭と家族に縛り付けられていた女は、しきりに身を飾ったり、愛人をつくったり、せっせと仮装舞踏会に出かけるだろう。

余話 火事と喧嘩は江戸の華


 えー、火事と喧嘩は江戸の華、何て言葉がございます。
 そもそもは江戸の名物事数え「武士鰹大名小路生鰯茶店紫火消錦絵火事に喧嘩に中っ腹」てののうち火事に喧嘩ですな。


 この言葉、主体というか主眼というかは「火事に集まってくる野次馬」「喧嘩を見物する野次馬」なわけでして。
 後になってその事を話題にするだとか、その場で別の野次馬とワイワイと騒ぐ、ただそれだけの目的に集まって来るようなことも多かったんじゃないのかってことですな。
 そりゃあ、中には手前で火をつけといて居直るだとか、誰かに会いたいが為に火をつけた、なんてな話もあるようですが。


 でだ、江戸の火事ってのは上で述べました、移動手段に集団の母数、報道に現場と全て揃ってる。


 ご存知のように江戸というのは当時としては世界有数の大都市でございましたが、華の大江戸八百八町、これは今の東京とは比べ物にならないくらいに狭い地域だったわけです。


 その江戸で火事が起こるってえとどうなるか。

 
 火事を知らせる半鐘がジャンジャンと鳴り始める、これが報道ですな。半鐘だけじゃなく、「火事だ」「火事だぁ」ってんで誰ぞが叫び出す。
 その半鐘が聞こえる範囲に居る人数てのは当時の日本中、いや世界中どこと比べたって多かった。これが集団の母数。手の離せない仕事をしてるとか、火事に興味が無いなんってのも居ただろうけど、俄然野次馬は多くなる。
 聞きつけるってぇと物見高い江戸っ子だ、それってんでそっちに駆け出す。これが移動手段。聞こえる範囲てのは近場だから走りゃあ燃え尽きる前にすぐ着きます。
 到着するのは火事場ですが、江戸の家屋は木と竹と紙で出来てたってんだからもう良く燃える。これが現場だ。火事の規模と風向きを見て、自分の家まで延焼しそうだったら取って返して家財道具を持ち出そう、と。


 でも、そこで集まってくる人ってのは、ただの野次馬ではなくて「観客」でもあったわけですな。
 だから町火消しは派手で町人の人気の的だった。火事はありがたくないことではあるけど、それを積極的にどうにかしてやろうじゃないか、てのが面白いところ。


 その火事も元々燃える物がないか、消化が上手くいきゃあ小火で済みますんでそこでおしまい。
 大き目の火事でも建屋が燃え尽きっちまって火がなくなれば当然野次馬は居なくなる。


 後は翌日なり後日なり、酒飲み話の種んなってはいそれまで。


 A「こないだの火事は凄かったねえ」
 B「しかしおかしな話だな。あそこんとこは普段は火の気が無かったって言うじゃねえか」
 A「いや、そいつがどうも赤猫らしい」
 B「なるほど、道理で倉から火がついた」



※当ブログの関連記事


 「炎上」というか「ネット右翼」とか「コメントスクラム」とか「ネットイナゴ」に関して、35年も前の小説で似たようなことが言及されているという話 :http://d.hatena.ne.jp/soorce/20060525#p1




#参考:http://search.yahoo.co.jp/search?p=%BD%D0%C4%A5%CA%FC%B2%D0&fr=top&tid=top&ei=euc-jp&search.x=38&search.y=19



*1:日本語訳はISBN:4488668011

*2:http://www.wordspy.com/words/flashcrowd.asp

*3:id:OguraHideoさんと多分同一人物

*4:「匿名だが卑怯でない者」や、「実名の卑怯者」が存在するのか、という問いに対して今まで一度も答えていらっしゃいません