わたしたちは、永劫なるものの過ぎていく相をこの目で見る。
重要な物事が起きても、それにまったく気がつかない人もいる。
偶発事件がときたま起こる。
だが人は、多くの挿話的な出来事を身をもって経験はしない。
報告されることに依存しているからだ。
そして人々はその心を閉じてしまう。
報告のどこがいいのだ?
ニュース説明に歴史があるのか?
編集会議で前もって選ばれ、偏見によって圧縮され放出されるものに?
必要とされるものが、歴史を作る人々からもたらされることはめったにない。
日記、覚書、自伝などは、洗練された言いわけの主観的形式にすぎない。
文書庫は、そのような疑わしい代物でいっぱいだ。
----ダーウィ・オドレイド
フランク・ハーバート「デューン 砂丘の大聖堂」 日本語版第3巻より。*1
この言葉もまた、物語の登場人物に作者が語らせた言葉なのですが。
#ここで疑問が一つ。オムライスに焼き魚という組み合わせはどうなのだろうか。
*1:原著:1985年、日本語版:1987年発行