情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

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漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

テラさん(寺田ヒロオ)最後の雑誌連載は「ひとこまマンガ」だった(1982〜1983年)


 きみたちのまんがに賭けた情熱はそんなにアマッチョロイものだったのか!!(挨拶)


 テラさん(寺田ヒロオ)といえば、かの「トキワ荘」の兄貴分。
 「まんが道」に登場したり、映画「トキワ荘の青春」では主役だったりするのですが、様々な葛藤と経緯の果てに、1973年には絶筆した、とする記述が多く見受けられます。


 しかし、その後の復帰についての記述がどこにも見当たりません。
 実は、1982年より、再び筆を執っていたこのです。*1
 その中でも連載と言えるのがこちら。

  • 掲載誌
  • 掲載時期
    • 1982年9月より、翌1983年4月まで全29回*2
  • 掲載内容
    • 「ひとこまマンガ展」というコーナーでひとこまマンガを連載。


 季節に合わせたものなど、ほのぼのとしたのありで、こんな感じの。


 創刊号、第4号
  


 以後
  

 
 



 最終回
 
 

解説


 「ひとこまマンガ展」は、土曜から金曜までの番組表に付随する形で、日替わり作品が掲載されていました。
 掲載位置はこんな感じ。
 



 このうち、土曜は手塚治虫、そして金曜日が寺田ヒロオというのは固定だったのです。故に、「連載」と言っていいでしょう。
 (他に、近藤ようこ杉浦日向子高野文子永島慎二林静一ほんまりう水木しげる森田拳次やまだ紫なども執筆していましたが、これらの作家は固定ではありませんでした。)


 杉浦日向子のとある回。
 



 残念ながら1983年4月でコーナーが終了し、スターの直筆イラストプレゼントやら似顔絵やらが載るのになってしまいました。
 ただし、手塚治虫のみ、その後「手塚治虫のTVまんが」として一コマ漫画が掲載され続けていました。

解題


 さて、なぜ、この雑誌で寺田ヒロオが執筆することになったのか。


 実はこの「ザ・テレビジョン」の創刊編集長、井川浩が、少年サンデーにおけるテラさんの担当編集者だったのですね。*3
 そして、日本漫画協会賞を受賞した「『漫画少年』史 」の自費出版時に編集を行ったのもこの井川浩。
 また、1981年のNHKの番組「わが青春のトキワ荘」の取材時にテラさんの元を訪れた野村静夫が、「ザ・テレビジョン」の副編集長になったのです。


 そのような関係から、雑誌立ち上げ時に仕事を依頼したのではないかと推測できます。


 また、受ける側としては

  • 従来の漫画雑誌ではなく、TV情報誌であること、また、角川書店はこの時点で漫画出版を行っていなかったこと
  • 同じコーナーの筆頭執筆者が手塚治虫であったこと


 といったあたりでしょうか。


 これ以降にも、1985〜1986年に週刊サンケイに見開き2Pの漫画が数回掲載されていますが、「トキワ荘グループテーマ競作選」という読切競作のうち一つなので連載とはいいがたいのです。
 この連載が最後だとしたら、「テラさんの最期の漫画連載は、手塚治虫と一緒にやったんだよ」と言えるのですよ。


 といった所で今回はここまで。




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*1:もちろん、ストーリー漫画については絶筆した、なら正しいんでしょう

*2:28回目の時点で企画自体がなくなったため、最後の一回は目次ページに掲載

*3:参考文献:月刊アドバタイジング 1982年11月号