講談社Be in Love 1980年2号「理代子の・・・どんな問題・こんな問題」より。
ホントこの辺、三十年一日ですね。
少女漫画評論というものが出てきて、本も出版されて、という状況をうけての文章より。
(前略)
おいしい部分を支えているのは、その陰にある数えきれないほどの地道な積み重ねなのだということを、あまり認識していないと見受けられる評論が多いように思います。
具体的にいいますと、現在の多様化され高度化された少女漫画のレベルを評価するあまり、黎明期にあった諸々の作品を軽視しすぎる傾向があるのではないかということです。
(略)
どのようにすぐれた文化であれ、その黎明期にあるものを振り返ってみれば、幼稚であり、ときには目をおおいたくなるほどこっけいですらあります。
しかし、それらは現在もなお、まちがいなくたしかな手ごたえをもってわれわれの胸をうちます。
それらは、純粋であり、この世に生まれてこざるをえなかった必然性を、なによりも素朴に、雄弁に、私たちに語りかけてくれるからです。
それらがなかったら今日もまたないからです。
だからこそ、それらは高い評価を与えられ、語り継がれるのです。
(略)
後世の高い水準に達したところから、過去の低い水準のものを嘲笑し批判するのは簡単です。
しかし、それはしてはならないことであり、また価値というものを歴史的な推移の中でとらえられる者にとっては、思うべくもないことです。
この言葉
この世に生まれてこざるをえなかった必然性
は描かずにはおれなかった作品があった、という池田理代子だからこそさらに重く感じます。
ただまあ、これは漫画だけじゃなくて、映画でもゲームでもアニメでも動画でも言えることだと思います。
「今見ると駄目」って言うのは凄く簡単。
しかし、その「今」として比較対照になるものがどうして創られたかといえば、過去の作品があり、その影響を受けてクリエイターになった人がいるからなのです。
ただ、逆に「昔の〜は良かった、それに比べて今の〜はカス」と言い始めてしまうとそれもおかしいのです。
小説でも映画でも漫画でもアニメでもゲームでも、10年20年前の作品で、かつ、今もなお高く評価されたり面白いと言われたりするものは幾らでもあります。
が、それは同時代に更に沢山存在していたものの中から記憶に残った、淘汰を経て生き残ったものなんです。
過去のその時代の最高傑作を今の数多の作品の平均と比べりゃ、それは差があるように見えるでしょうなあ。
例えば、1950〜60年代のミュージカル映画は傑作揃いだよね、と「雨に唄えば」や「ウエスト・サイド物語」や「サウンド・オブ・ミュージック」の名前を出すのは簡単。
でも、同時代に発表された、今ではフィルムが残ってるかも怪しいミュージカル映画ってのは何百本、いやさ数千本にも上るはずなんです。
技術や表現は進化・変化していくけど、そこだけ見てもしょうがない。それでも残っているのがあるのだから、それは問題じゃない。
多くの屍の中に今も立っている者があり、さらにその戦場を抜けた後に現在があるとでも言えばいいのかなあ。
過去に対する尊敬と、現在に対する率直な目線が必要なのではないか、と思うわけです。
といったところで今回はここまで。
余談
そうそうこのような文も。
少女漫画は、このままいくと近い将来女性漫画と少女漫画にわかれてしまうかもしれないという気がしています。
実際に現在までの30年でさらに細分化してますね。
また、他の評論と一線を画すものとして、出版直後だった米沢嘉博の「戦後少女マンガ史」の名前が挙げられておりました。(他の評論については具体名なし)