たいがいの道徳は正しいおこないについて説いている。
それが正しいとわかるのは、容認と遵守の長い過程を経ているからだ。
経験が追いつかない個人には、道徳を作ることができない。
なんの権利があって、祖先より自分のほうが分別があるなどと言えるだろう。
道徳は万人のためのものであって、言いかえれば、道徳を作るにはできるだけおおくの考えが必要だということだ。
だから、個人偏重の立場からこしらえられた現代の道徳には、かなり無理がある。
各自に道徳を作る機会を与えれば、自分にとって一番楽な、なるたけ都合の良いものができあがるだろう。
それは、いかに立派な名前をつけようと、わがままと呼ぶものだ。
アレグザンダー・マコール・スミス「No.1 レディーズ探偵社、引っ越しす」 P100-P101より。
自分の「正しさ」を無条件に信じている人、というかそのように振舞って見せる、そういう見解を持っているかのような文章を書いてみせる人がいるのだけれど、どこまで本気なのか、ということについて常に疑いを持たざるを得ない。
「警官は悪事を働かない」「大学教授の言う事は理論的に正しい事だけ」「弁護士は社会の「悪」に見て見ぬふりができない」*1「はてブのコメントは見ない」*2なんていう冗談にしか思えない文章を読むとさらにその疑いは深まる。
自分ルール、というのならばしょうがないんだけれども、でもそれってわがままでしかないよね。
それでいながら他人に「道徳」というか「正しい行い」から外れている、みたいな事を書いてたりすると、なんかもう徒労感すら沸かない。
ところで、SとM@村生ミオの16巻が今日発売のはずなのに、全然売ってないんだけど。
部数が少ないんじゃあなくて、売れすぎて品切れなんだな、きっと。
そうにきまってる。明日遠出して探しに行こう。
↑これが「自分にとって一番楽な、なるたけ都合の良い」物事の解釈の例です。