私はよく、萩尾望都さんや竹宮恵子さんや大島弓子さんの熱狂的なファンだと称する人たちから、
「めざわりだから、早く漫画界から消えるように」という、おごそかな、迫力ある忠告の手紙を受け取ります。
前にあげた3人の作家的傾向でない作品は価値がないのだから、存在すべきではないというのです。こういうことを、けっして頭の悪くなさそうな女子大生なんかが、きれいな文字でしっかりと書いてくるのだから、暗澹としたきもちになってしまいます。
また、中には集団で、出版社に「○○をやめさせるように」という投書をする人たちもいます。
ここ最近のかんなぎ騒動に関して私がやれることは全く無い*1ので、過去の話を持って来てみることにします。
これは、レディースコミックの歴史*2をいつか記事に出来るといいなーと思って以前*3調べものをしていた時に手にした、講談社BE・LOVEの創刊号*4に載っていたものです。
あまりに状況に合致しすぎた話なんで、三十年一日というかなんというか。
これ、「オルフェウスの窓」連載中の話ですよ。
理代子の…どんな問題・こんな問題 「少女漫画マニア論」
漫画の中じゃいえないあんな話、漫画製作にまつわるこんな話の数々を、女性漫画界の第一人者・池田理代子先生が、やさしく、またキビしくあなたに語りかけるおしゃべりコーナー。思いがけない理代子先生の素顔がのぞけるかも……ヨ。*5
■創作の姿勢■
山本薩夫監督の『あゝ野麦峠』*6は、ごらんになった方も多いと思います。
その山本監督と先日、お仕事でお会いして、いろいろ興味深いお話をうかがうチャンスに恵まれました。
雪のシーンを撮るときの苦労話など素人のわれわれが聞いたら、エエーッと、びっくりするような秘話も面白かったのはいうまでもありませんが、一つ、個人的に私が胸を打たれたというか、わが意を得たりと共感したというか、忘れられない言葉がありました。
それは山本監督の創作の姿勢ということについてです。
「ぼくは映画をつくる場合には、大衆にわかりやすいということを、つねに心がけてきた。ちょっとひねってシャレた手法を使うと、批評家なんかの専門家やマニアには受けがいいんだけど、そういう作品は一人よがりだったっりして、一般の人には、よくわからないことが多い。
大衆にわかりやすく、おもしろいことが芸術的価値が低いことだとは、ぼくはぜったい思わない」
要約すればそういった主旨のお言葉でした。
監督は、1910年のお生まれですから、今年*769歳。現役としては、すでに道を極められ、円熟の域に達せられたお年です。
その監督が、そのことを語られるときだけは、まるで若い青年のように語気を強め、心なしか頬を紅潮させられているようでした。
それは、このごろとくに私も考えていた問題でもあったので、しっかりと同感しますと、
「そうでしょう、あなたもやっぱりそう。思いますかよかったよかった、ぼくはまちがっていなかったんだと自信を深めましたよ」
と、いかにもうれしそうにおっしゃるのです。
山本監督ほどの境地に達した創作者であっても、もしかしたら根本的な創作姿勢という点においてはつねに、悩みあるいは、いまだ迷われることもおありなのではないか……と、ハッと胸を打たれました。
考えてみればこれは、創作を続けるかぎりつきまとう問題なのかもしれません。
■マニアVS大衆……?■
少女漫画もしくは女性漫画の世界というのは、ことにそれが顕著な形でむきだしにされてくるところです。
私が数年前、はじめて里中満智子*8さんとお目にかかったとき、彼女がポツンと、「私の作品って、マニアにはとても評判悪いのよ」といったのが、いつまでも印象的でした。
「それはマニアの方がアホなのじゃ〜っ」
すかさず私は憤激しましたが、かくいう私も、じつは漫画マニアと呼ばれる連中*9には相当作品の受けがよくないのです。
なにしろ、彼らはまず大衆受けするという、そのことだけで、芸術的価値が低いと決めつけてしまうのですから……。*10
たぶん彼らにはなにかしらチンケなエリート意識みたいなものがあって、“大衆”というものを軽蔑しているようなところがあるのでしょう。
彼らに共通してるのは、例外なく、自分の感覚や美意識をぜったいだと思いこんで、そこから一歩も出ようとしない点です。
好みや主観だけが、ものごとの価値をはかる尺度だというのは、女性の特質だとよくいわれますが、その中でも選りぬきの主観型人間を集めたのが、少女漫画マニア集団*11ということでしょうか。
人は自分とちがうのだ、世の中には、さまざまな価値の規準があり、さまざまな志向があるのだということがわからない、幼児的性向の持ち主なのかもしれません。
そういえば、よく女の子の中に、小説でも音楽でも、「あまり人に知られていないころは好きだったけど、みんなが騒ぐようになったら、もう好きじゃなくなった」なんて、子供みたいなことをいう人がいます。
いったい、その小説なり音楽なりのどこを見て、何を評価していたのかと疑いたくなりますが、こういう子供みたいなところも、マニアの人には多くあるようです。もちろん、例外も多いことはいうまでもありません。
私はなにも、主観的な価値判断だけで集うのが悪いのだといっているのではありません。
なんといわれようと好きなものは好きだし、やっぱり好きなものが、いちばんいいものだと思うのは当然だからです。
ただ、それを他人にまで押しつけようとする点が、あまりに幼児的で偏狭だと思うのです。そして、その主観的価値観からはみだすものは、すべて退け、この世から排撃してしまおうというのではもう、これはりっぱなファシズムです。
なぜ、彼らには、自分の好みに合わないものであっても、この世に存在することを許そうとする視野の広さがないのでしょうか。*12
そしてまた一歩譲って、たとえ自分の好みに合わないものであっても、思いがけず価値あるものかもしれないと考えれば、世界は、もっとバラエティーに富み、楽しくなってくるはずでしょうに。
この世には、いろんな分野に、マニアファンと呼ばれる人たちがいます。
しかし、この主観的価値観からはみだすものは存在することすら許せない、などというすさまじい偏狭さは、少女漫画のマニアファン独特のものだと思います。*13
私はよく、萩尾望都さんや竹宮恵子*14さんや大島弓子さんの熱狂的なファンだと称する人たちから、
「めざわりだから、早く漫画界から消えるように」という、おごそかな、迫力ある忠告の手紙を受け取ります。
前にあげた3人の作家的傾向*15でない作品は価値がないのだから、存在すべきではないというのです。こういうことを、けっして頭の悪くなさそうな女子大生なんかが、きれいな文字でしっかりと書いてくるのだから、暗澹としたきもちになってしまいます。
また、中には集団で、出版社に「○○をやめさせるように」という投書をする人たちもいます。*16
ところで、こういう人たちはまた、自分の傾倒する作家に対しても、黙ってはいません。
「あの作品の、何ページめの何コマ目のネーム(せりふ)は、ああすべきではなかった」とか、「あの主人公は、こういう性格にすべきだ」とか、「何ページめのエピソードはこう変えるべきである」とか、もう、それは押しつけがましい干渉の手紙が多くて、非常に不愉快でたまらないということを萩尾さんがいっていました。*17
ほんとうは、こういう人たちのことは“どマニア”というそうなのですが、創作する者であれば、たとえどのような作風の人であれ、こういうふうに自分の主観を他人に押しつけてはばからないマニアファンの存在に怒りを感じない者はないでしょう。
彼らは、熱狂的で狂信的であるが故にそのファン活動というものはハデです。*18
そのために、デビューしたての新人漫画家などで、たまに、彼らの評価を得たくて難解な一人よがりの作品を描こうとする作家もいます。
若いのですから、自分の創作に対する姿勢が定まらないのも当然かもしれません。
通俗的で、わかりやすいものを描けば、マニアからはそっぽをむかれるのは必至だから、それをおそれるというのもよくわかります。
私のような通俗漫画家でさえ、ときには作風を変えてみようかという誘惑にかられることがあります。
その反対に、独特の、それ故に限定された読者をもつ作家も、バーッと世の中に受け、大衆に騒がれるものを描いてみたいという迷いを抱くこともあるかもしれません。
それほど、自分の創った作品の受けとめ手の存在というのは、創り手には、意識するとしないにかかわらず、大きなウエートを占めているものなのでしょう。
■マニアの必然性とその限界■
私は、マニアが存在することの価値を否定するものではありません。
衣・食・住がこと足りてきたときに、人間の心は余裕をもって魂の充足を求めますが、たとえそうでないときにも、芸術をささえ、娯楽をささえていくのは、熱狂的なマニアの存在です。*19
社会から、そして、ことに教育の世界から目の敵のようにされてきた漫画が、今日かくのごとくに市民権を得てきたのも熱心な読者たるマニアの存在に負うところが一部あることは否めません。
しかし、だからといって、それは創り手の内部にまでズカズカと侵入し、漫画界の動向をまで、むりやり取りしきってしまう権利を与えられるほどの業績であるとは思えません。
作品を創るのは、あくまで作家であって、どんなに熱狂的でも、受けとめ手たるマニアではないというのは自明の理です。
マニアの存在がなくなれば、芸術文化は衰退するというのが私の持論ですが、また、そのマニアがあまりにも強大な力をふるいはじめたとき、芸術文化は、大衆、社会にとって健全な成長を、はばまれてしまいます。
ファンの常軌を逸した熱狂が、音楽家の足を引っぱり、コンサートを開くことさえ困難にしてしまう現象があるように……。
芸術、文化といったものは、それがなければ死ぬというものではありませんが、しかし、やはり万人にとって必要なものであることはたしかです。
それゆえに、人と自分とはちがうのだという自覚、人にも自分と同等の権利があるのだという認識を新たにしてほしいものです。
ようやく社会に市民権を得はじめた漫画家のはしくれとして、このごろの少女漫画界におけるマニアファンのファッショ的とも思える動向に、残念さ、苦々しさを禁じ得ないでいるのです。
注釈内および以下記事中は敬称略。
この頃だとまだ「オタク」という言葉が無かったので、その辺に少々違和感がありますかね。
しかしこれ、「ベルサイユのばら」の作者に対してもこんなことがあったなんて、って話ですよ。
冒頭引用部位外にも
ほんとうは、こういう人たちのことは“どマニア”というそうなのですが、創作する者であれば、たとえどのような作風の人であれ、こういうふうに自分の主観を他人に押しつけてはばからないマニアファンの存在に怒りを感じない者はないでしょう。
彼らは、熱狂的で狂信的であるが故にそのファン活動というものはハデです。
しかし、だからといって、それは創り手の内部にまでズカズカと侵入し、漫画界の動向をまで、むりやり取りしきってしまう権利を与えられるほどの業績であるとは思えません。
作品を創るのは、あくまで作家であって、どんなに熱狂的でも、受けとめ手たるマニアではないというのは自明の理です。
と、なんともかんとも。
自分も漫画マニアなのでちょっと自省する点もあり。
しかしこれ、池田理代子は心が強かったと言うか、いかなる内容の手紙でも編集者は止めずに全部自分に渡すように言ってたのかもなあ。
それとも、プロダクションの住所が公開されててそこに直接送られてたのかしら。
ファンレターへの編集者チェックって必要かもって思っちゃいますね。まあ、ネットだとどうしようもないんですけど。
かんなぎの作者である武梨えりに、池田理代子と同じだけの強さを持てとか、他人の意見なんか無視しろとかそういうことを言うつもりは無いです。
痛みに鈍感になれなんて言えないし、もう描くのがいやになったら描かなくたっていいと思う。
当時とは届く悪意の量と速度が違いすぎる。それに、他に「かんなぎ」の描き手は居ないのですから。
ベルサイユのばら(5冊セット) 池田 理代子 |
関連エントリー
はこの辺でしょうか。
- まにあっくすZニュース 非処女騒動で話題の「かんなぎ」無期休載へ …原作者に脅迫目的の郵便物を送付したとの書込みも
- http://guideline.livedoor.biz/archives/51147088.html
- http://anond.hatelabo.jp/20081206183946
- 漫画に限らず創作作品全般に言えることだけど、キャラクターの設定からス..
#世界は狭く、距離は近く、それがいい事ばかりでは無いんですかねえ。そりゃ雑誌も作者の住所を直接は載せなくなるよな。
*1:何か出来るのは作者と編集部「だけ」です
*2:これがなかなか難物で、例えば婦人倶楽部に1969年末に掲載された石森章太郎版「チャタレー夫人の恋人」なんかをどのような位置づけとして考えればいいのか、とかね。これなんか「劇画」ってなってるんだよなあ。
*3:いや今も一応思ってるよ
*4:正確には総合女性誌であったヤングレディの漫画特集増刊号BE-LOVE 1979年9/18号
*5:soorce註:この編集部が付けたと思われる惹句は内容と乖離しすぎだと思うがどうか
*6:soorce註:1979年実写邦画の最高興行実績を残した作品。未DVD化。
*7:soorce註:1979年当時。1983年に逝去
*8:soorce註:「アリエスの乙女たち」などが代表作として既にあり、この頃「海のオーロラ」「悪女志願」などを連載中
*9:soorce註:まだ「オタク」という言葉は存在していない
*10:soorce註:1972年から週刊マーガレットに連載された「ベルサイユのばら」はすさまじいまでのブームとなり、1974年には宝塚で舞台化。現在まで上演が続く大ベストヒットとなった。またこの1979年にはTVアニメ化。こちらも大ヒットした。
*11:soorce註:ここでのポイントは、池田理代子が男性読者を想定していないことでしょうか。確かに1970年代だとそうかも。ただ、だっくすの少女漫画特集号(1978年12月)などを見てみれば、それなりには男性読者もいたようではあります
*12:soorce註:そういうのが長じるとhttp://d.hatena.ne.jp/aureliano/20081129/1227941427みたいにこじれるんだろうなあ。
*13:soorce註:これは池田理代子が接する機会の多かったのが少女漫画マニアだけであったということなのでしょうが・・・いやしかし
*14:soorce註:1979年時点での表記。現在は竹宮惠子
*15:soorce註:所謂「24年組」世代としては他に木原敏江、山岸涼子など。そのあとに続いた「ルネッサンス第二世代」と呼ばれる作家としては、倉多江美、森川久美、坂田靖子、花都悠紀子、伊東愛子あたりか
*16:soorce註:出版社に、というのが作者に直接向くとそりゃキッツイよなあ
*17:soorce註:この年までに「ポーの一族」も「トーマの心臓」も「11人いる! 」も「百億の昼と千億の夜」も「スター・レッド」も発表済み。
*18:soorce註:ファンジンを発行したり、雑誌の読者欄・だっくす・ぱふに葉書を出したり、と今に比較すれば手間もかかるし規模も小さいしレスポンスも遅かったのではありますが