情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明

情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明


漫画、あるいは小説、もしくはエッセイなどの
印象、あるいは連想、もしくは感想を書いてるBlog。

「物語の続きを知りたい」という欲求に関わるいくつかの事例


 あるいは「そもそも教養となることなど期待されずに作られたものでも、年月を経て残れば教養と呼ぶに足るものになることもありうる」、もしくは「100年の歴史も無いものが今は教養と呼べるはずが無いでしょ」という話。


 三つの過去の事例と、それを現代に敷衍した場合の話。


 この記事は
 「漫画は教養ではない」http://d.hatena.ne.jp/noon75/20060724/1153752573
 に影響を受けて書かれ始めましたがなんか全然違う方向に行っちゃったものです。

 

物語の続きを知る為に押しよせた人々-ディケンズの物語の続きを知りたがった人達-(1841年頃)

 アメリカでの事例。


 ディケンズの小説が教養かどうかは、見解の相違も多々あるとは思います。
 しかし、150年以上の間読まれ続けてる作品が有るのは事実と言っていいでしょう。



ディケンズの作品は連続読物("分冊")のかたちで刊行された。
こういう刊行形式が当時のマス・メディアであり、いまのテレビのミニ・シリーズのように、一般大衆の娯楽だった。
あらゆる人びとが、ディケンズの最新作の物語を首を長くして待ちわびた。


『骨董屋』の分冊が刊行中の一八四一年、ニューヨーク港に大勢の群集が集まり、イギリスからの大型帆船が桟橋の先端に近づくのを待った。
大西洋横断の電信がまだなかった時代で、旧大陸からのニュースはすべて船で運ばれてきたのだ。
群集はぞろぞろと前へにじりよった。
桟橋に立ったひとりが、帆船の手すりの前にいる人びとに向かって、とつぜん息せききった声でさけんだ。


「リトル・ネルは死んだのかね?」


イギリスの田舎では、一シリングの出費をする余裕のない人びとが、ときには一村ぜんたいで金を出しあって分冊を買い、みんなを集めてだれかが朗読したという。

  古書店めぐりは夫婦で@ローレンス・ゴールドストーン&ナンシー・ゴールドストーン(ISBN:415050234X) P248〜P249より。



 この港に集まった人々の行動が、現在、週刊少年漫画誌のネタバレをインターネット上などで求める人たち似ているのではないでしょうかねえ。


 もちろん、今やリトル・ネルの運命を知らない人間を探す方が難しいかもしれません。
 しかし、その結末を知っていることで物語が価値を失っては居ない。私はそう思うのですが。


続きを知りたければ金を払え-講談の続き読み、落語の続き物-(文政〜明治〜現在?)


 日本での事例。


 今でこそ、落語の定席が僅か4件、講談に至っては1件しか残っていないわけですが、
 かつて、東京が江戸と呼ばれていた頃(長くなるんで略)


 まあそういう背景もあって、いかにして次の日にも客を寄席に来させるか、という試行錯誤の末に生まれた形式として戦記もの、人情噺、怪談などの長編や続き物が誕生しました。


 長い場合には1ヶ月(10日間だったり時期により色々ですが)の間、1つの長編を一夜ずつに分割して口演していたわけです。
 当然、お客が翌日以降も見に来るかどうかは演者の実力、噺の面白さとで決まるわけですから、それが可能なだけの人が「真打」であり、トリを勤められたわけです。


 ただ、これに関しては、既にストーリーはお客さんにとっても既知の場合も多いのにも関わらず、それでも見に行く場合が多々あったわけです。
 その辺は話芸の面白いところで、例えば『芝浜』の下げを知っていてもストーリーを知っていても、『饅頭怖い』中のくすぐりや下げを知っていても、それでもなお聞いて面白いし、また聞きたいと思うことがあるわけで。


 この辺は現代にすると、既に単行本を持ってるのに完全版を買ってしまうのと似ているような気がします。
 話の筋は知っている。どう展開しどうなるのかも知っている。
 それでも、同じであって同じでないものに金を使ってしまう心理、というあたり。




続きがもう出ないのなら勝手に書けばいいじゃない-作者の死後も書き続けられたオズシリーズ-(1900年〜1963年)


 アメリカでの事例。


 1900年、ライマン・フランク・ボームが発表した『オズの魔法使い』は(映画の影響などもあり)現在に至るまで多くの人間を魅了し続けています。
 この物語の内容を知らない方が少数派なのでは、というくらいに教養どころか「常識」と言っても良いくらいに有名でしょう。


 しかし、あまり有名ではないのですが、この物語には作者自身の書いた13篇の続編*1と、作者の死後に書かれた28篇の続編が存在します。
 (詳しくはWikipedia http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AA%E3%82%BA%E3%81%AE%E9%AD%94%E6%B3%95%E4%BD%BF%E3%81%84 を参考のこと)


 最初は続編を書く予定すら無かったのです。ドロシーは魔法の靴を失ってカンサスへ帰り着くのだから。
 ところが、「めでたしめでたし」で終わったはずの物語の続きを読みたい、という声が殺到したがために続編が書かれることに。
 それでも、作者自身が全6作で終了することを宣言し、


 第五作目の序文で、次作で完結することを示唆し、六作目で一旦完結した・・・かと思われました。


ところで、あの作品が世に出てからというもの、<おねがい、ドロシーのことをもっと書いてちょうだい>とか<オズのお話をもっともっと>という手紙が子供たちから洪水のように押しよせてきたのです。となれば、子供たちによろこんでもらいたいという、ただそれだけのために書いているわたしとしては、子供たちの願いを尊重すべく、ひたすらつとめるほかはありますまい。
(中略)
―――ことによるとそれが、オズの国の物語としては最後の一冊になるかもしれません。

 オズへつづく道(The Road to OZ)(ISBN:4150404216)序文「読者のみなさんへ」より。*2


 この後、六作目の『オズのエメラルドの都』(The Emerald City of OZ)で、もうオズの国との連絡は取れないのでこのシリーズはおしまい、とやっちゃったわけです。


 しかし、読者の声は衰えず、結局1913年に復活、以後作者が亡くなる1919年までに全14作*3が(毎年のクリスマスにあわせて)刊行されました。


 ところが、ところがそこで終わらなかった。オズシリーズはその後も別の作者によって書き継がれて、現在までにトータルで40作品。アンオフィシャルであるものを含めたら星の数ほど、ということになっているわけです。


 これは現在にすれば、ドラえもんサザエさんでしょうか。
 強力すぎる物語の引力により、擬似ブラックホールと化していったん引き付けた者たちを捕らえ続けている。そんな風にも思えます。

だからどうなのよ、というと


 過去、現在を含めて、生み出される膨大な数の物語達のうち殆ど全ては一過性で、そのときの楽しみに供される、野蛮で、消耗される、「教養として扱われることを拒否するエンターテイメント」でしょう。


 話芸という、雑誌よりもなおうつろい易い、消耗品どころかその場で消えていく揮発的なものも*4であっても残るものは残ってきているのです。


 始めは一般大衆の娯楽だったり、子供のためのおとぎ話だったりしても、それが年月を経て残るものならば、残った結果としては「教養」と呼ばれるものになるかもしれません。
 それがたとえ元々意図していたものとは全く違ったとしても。


 漫画雑誌の歴史はたかだか50年。そして、その中で生まれた作品のうち、例えば30年前のものでも、今読めるものとなると全作品の1%にも満たない、どころか両手で挙げられるくらいしか残ってないわけで。
 


 定着しなかった、残らなかったものたちの屍の上に今の文化があるのだとして、どうせ残らないと思われる刹那的な物でも、そういうものだからこそその時に楽しめばそれで良いんじゃないのかなあ、と。


 今から50年後、100年後にでもなってみないと、それが教養だとかなんだとかになってるかどうかは分からないものなんじゃないでしょうか。
 沢山の要素や何かが失われたとして、それでも残る幾つかの残滓。
 それが「教養」と呼ばれるようになる何かなんじゃないですかねえ。



#全然関係ないんですけど、『オズへつづく道』の邦訳タイトルが『オズ珍道中』だったらちょっとイヤかもしれませんね。あ、逆かな?「The Road To 〜」の元祖がこれなのかしら?


*1:一応、全て邦訳はされていますが、現在新品で入手できるのはその内数編でしかありません

*2:こちらで原文が読めます。http://www.pagebypagebooks.com/L_Frank_Baum/The_Road_to_Oz/To_My_Readers_p1.html

*3:最後の1作は未完成だったが息子らの協力もあり1920年出版

*4:米朝師匠曰く、その日その時のその会場に集まっていただいたそのお客さんとだけの共有物であり、同じ噺であっても二度と同じにはならないもの

今週読んだ本

  • 退屈、消失、暴走
    • 面白い面白い。「消失」は面白いよ、というのは本当でした。「消失長門」がはてなキーワードにまでなってるよ。その気持ちは分かる。短編は色々だなあ。
  • 星間パトロール
    • 古典的スペースオペラ。単語を並べただけでこの素晴らしさが伝わるだろう。「何千光速」「エーテル流」「葉巻型宇宙船」「殺人光線」「破壊光線」「蛇人間」「伝声管」「八星連合」*2「銀河連合評議会」「超磁力」etcetc...。
  • リムランナーズ
    • 「現代のスペースオペラ」として紹介されたんですよ、当時は。でもこれってラブストーリーですよね。で、これ以降チェリイの作品は邦訳されていないんですけど、どういうことなんでしょうかね・・・。
  • 未来いそっぷ
    • 「めでたしめでたし」の後の話、ということで「シンデレラ王妃の幸福な人生」の収録されているこの1冊。しかし、ほとんど全てが現代でも通用するのがすごい。流石は星新一




涼宮ハルヒの退屈 (角川スニーカー文庫) 涼宮ハルヒの消失 (角川スニーカー文庫) 涼宮ハルヒの暴走 (角川スニーカー文庫) 銀河大戦 表紙 太陽強奪 表紙 リムランナーズ 表紙 未来いそっぷ 表紙



*1:これは現行商品

*2:冥王星が未発見だったので